さて、『文藝春秋』8月号の特集「日本の100人」に鹿島茂氏が「隠れ水戸水脈」として推した山川菊栄が、水戸つながりでかつて『文藝春秋』に書いたものには、「ラッシュアワーと猫と杓子」(『文藝春秋』1929年6月号・『山川菊栄集5』(岩波書店)に収録)があります。不況のなかの受験や就職に右往左往する世代に対して、その一世代上の識者たちが資本家たちに依存した立身出世の過程を棚に上げて、上から目線で「独立独歩」を薦めている傾向をユーモラスに批判しています。そして、文末には、光圀が『大日本史』編纂のきっかけにしたという『史記』の「伯夷列伝』の故事を隠喩に使って、たとえ安易にひとり義に生きても飢えるだけだと戒めています。
その6年後、女性解放論者の山川菊栄に求められた「男性への爆弾」について、標的を身内に探していく「まず手近なところから」(『文藝春秋』1935年2月号・『山川菊栄集6』に収録)という面白いエッセイがあります。爆弾を求められたのは、山川のほかに森田たま、河崎なつの三人で、筆頭に位置づけられた山川は、「非常時とはいへ、凄まじい課題が出たもの。(中略)私のような、かよわいたおやめですら、爆弾三勇士並みの仕事ができるというお見立てにあずかった」と諧謔的にかわしつつ、根が平和主義者であり、自分は男性には爆弾どころか花束のほか投げたことがない男性讃美主義者だと明言します。そしてこの場はやむを得ず、近ごろはやる急角度の転向をきめこみ、ともかくも爆弾をとりあげ、まずは夫から的にしていきます。
女中さんの休暇のときの恒例の風景として、台所にたつ夫は、山川菊栄の洗った茶碗を拭き終えると得意の包丁磨きを始めています。そこに爆弾を投げようとすると、夫は「温良貞淑、実に亭主たる者の亀鑑だね」と自ら名乗りだすので、爆弾投下はやめてしまいます。つぎに長年の恨みがあるという秀才で通した兄。その恨みとは、学校から帰ると大声で教科書を読み上げ周囲の迷惑を顧みなかったことだというのですが、姉・松栄が兄の結婚後、全く人が変わりよく気がつく優しい人間になった、と幸福そうに語っていたことを思い出し爆弾投下はあきらめます。
さらに、頑固なアンチ・フェミニストの従兄の砲兵中尉に眼を向けると、妻に先立たれ10人の子供を抱えて一心不乱に家事育児にいそしむ姿があり、その巧みなミシン仕事にも感心しつつ、我が家では夫も息子も自主的にミシンを操って綻びくらいは直しているとも。
このように家族や親戚がみな家事育児の超亀鑑派、つまり超模範的な男性の血統を引いているのだというのです。祖父にあたる水戸藩漢学者・青山延寿も夜中まで読書に没頭するかたわら、赤子とすでに寝入っている妻から、子をそっと取りあげお手洗いに連れていって、また静かに戻したという、子育て中に繰り返されたという微笑ましい逸話を紹介しています。
そして、欧米の物質文明の影響で思想が悪化し、軽佻浮薄な非亀鑑人種が跋扈して、こうしたわが国の古来の順風美俗を破壊するのは、国家の前途のために寒心に堪えないといい、これらの美談佳話を教科書に掲載すべきと提言をして、とうとう爆弾を投げずに平和主義花束主義に落ち着くことができたと筆をおきます。
中条(宮本)百合子は、面白い文章で社会的問題を私的空間におさめて論じていると評しました(鈴木裕子解題『山川菊栄集6』)。すでに日中戦争に突入し太平洋戦争へと向かうにつれて、内閣情報部さらには内閣情報局による苛烈を極める言論弾圧が進み、執筆者選別と直接的な検閲が、山川菊栄の執筆の場をどんどん狭めていくことになりました。
印刷用紙の統制、さらには総合雑誌の統合さえも検討されようとするとき、『文藝春秋』に書いた「烈公のころ」(1944年5月号)は、大政翼賛体制の総力戦を煽るような後期水戸学の称揚のなかで、ごくわずかに許されたテーマの一つであり、水戸水脈が施した戦時下の糧だったのかもしれません(了・文中のタイトル表記の用字は『山川菊栄集』に拠りました。山口順子)。
追記:「ラッシュアワーと猫と杓子」は「猫と杓子」というタイトルで、『南洋日日新聞』(1930年12月11日~13日・1面)に転載されています。(スタンフォード大学フーバー研究所・邦字新聞デジタル・コレクションによる https://hojishinbun.hoover.org/ja/newspapers/nos19301211-01.1.1<2023年月14日閲覧>)