今年2月4日に急逝された赤松良子さんを偲ぶ会が、今月15日、東京品川の日本ユニセフ協会で執り行われました。赤松良子さんは第七代労働省婦人少年局長(のち婦人局長)に1982年就任し男女雇用機会均等法制定に向かって邁進していったとき、山川菊栄はすでに他界していましたが、自叙伝『続・忘れられぬ人々』(ドメス出版、2017年12月)にその想い出を書かれています。
このニュースで前回紹介した雑誌『婦人のこえ』終刊のあと、山川菊栄は1961年、71歳のときに婦人問題懇話会を設立しました。赤松さんは初期からの会員で、「若者の一人として会に入り、毎月の研究会で先生とお会いしたころの印象」として、「とてもおだやかで口数も少なく、みなりも質素で少しも偉ぶるところがなかった(略)本省の局長経験者、著名な研究者という方なのに、貧乏な若者たちと番茶を飲みながら、一緒になって議論を楽しんでいる姿が何とも嬉しくありがたいものであった。怖いもの知らずで若者(私を含む)は大先生と対等な気分で議論をぶっていたが今思えばもっと大切にしなければいけなかったのに、申しわけないことをした。」と振り返っておられます。
山川菊栄は女子英学塾での英語の専門教育に飽き足らず、東京大学進学を望んだ時、その規程には女子の入学を許可する明示がなく断念することになりました。それからおよそ半世紀がたち、赤松さんは津田から東京大学法学部に進み、新たな道を切り開こうとしている若き女性官僚として懇話会に現れました。そのような赤松さんを含めて、懇話会に集った若い人々への菊栄のさりげない包容力が番茶の湯気のむこうに感じられる一節です。
山川はじめ会員たちが待望していた冊子型で発刊された『婦人問題懇話会会報』第1号(1965年12月)をみると、「特集 主婦の就職」のもと、巻頭の山川菊栄「母の賃労働とパートタイム」につづき、赤松良子「主婦の就職-アメリカの実情と問題」、樋口恵子「主婦就労の動機としての教育費」などの記事が掲載されています。ほかに赤松良子さんが同会報に書いた記事や座談会についてはこちらから読むことができます。(以上、国立国会図書館デジタルコレクションへの外部リンク)
日本婦人問題懇話会の同窓会に必ず出席され、昨年10月もお元気そうでしたし、いつも凛とした変わらぬ姿勢に逆に励まされたものでした。
心からご冥福をお祈り申し上げます。