広島の加納実紀代資料室「サゴリ」を訪問しました。

2019年2月22日、加納実紀代さんは亡くなりました。加納さんは『銃後史ノート』刊行の女たちの現在を問う会メンバーの一員として、第5回山川菊栄記念研究問題奨励金(山川菊栄賞、1985年度)を受賞され、その後、1994年からは選考委員として、また周年行事などの山川菊栄記念会の活動を支えてくれました。山川菊栄記念会(以下記念会)の活動の核は毎年の山川菊栄賞の対象作品の選考でした。山川菊栄賞は2014年の第34回で終了しましたが、労働者運動資料室での山川菊栄賞の選考は、他薦、自薦で寄せられた対象作品から1作を選ぶ作業ですから、大変厳しい議論が毎回繰り広げられました。そうした議論の核にいたのが加納さんでした。一方で、選考委員会では皆さんの持ちよりの美味しいお菓子などの食べながらのコーヒーブレークも楽しみの一つで、その和やかなおしゃべりが弾む中心にも加納さんがいらしたことを懐かしく思い起こしています。その加納さんの個人資料館サゴリ(広島市東区光が丘)訪問が、10月末、やっと実現しました。

「サゴリ」は、韓国語で「交差点」。民族、ジェンダー、植民地主義、戦争加害・被害、原爆の被害・(広島の加害)などの「交差」する処のイメージでの命名と聞いています。まさに「複合差別」、インターセクショナリティーを可視化する場所として2023年3月、開設されました。
広島駅から歩くこともできますが、坂が続く高台にあると聞いていましたので、タクシーで向かいました。レモンハウス1階の資料室は、もともとアジアからきた留学生の宿泊施設だったということゆったりしたで広いスペースで、また窓からは周囲のたくさんの緑の植物、そして広島の街さらには瀬戸内海が臨めるすばらしいロケーションでした。

「サゴリ」では高雄きくえさんが待っていてくださり、施設や展示の概要を説明してくださり、さらに加納さんについてもたくさんお話することができました。高雄さんは広島で「家族社」という出版社を経営し、『月刊家族』を刊行。実は1998年度の第18回山川菊栄賞作、春日キスヨ『介護とジェンダー―女が看取る、男が看取る』の出版元が家族社でした。今でこそ、介護・ケアのジェンダー視点は、どこでも言われますが、1998年にこれに注目した、春日さんのお仕事、刊行された家族社、そしてそれを選考した記念会の先見の明を自画自賛したくなります。

高雄さんと加納さんとの出会いは、加納さんが『女がヒロシマを語る』(インパクト出版会、1996年)を出したあと、高雄さんがすぐに原稿を依頼(「ヒロシマとフェミニズム」)された時とのこと。以来『月刊家族』の巻頭エッセ―を加納さんは10年間書かれたそうです。加納さんは、銃後史ノート以来、女性の戦争加担を常に問題にし、被爆者であったご自身の経験や「ヒロシマ」が被害者としてだけ描かれることに疑問を呈しておられ、特に3・11以降は「フクシマとヒロシマ」をテーマに、原発を許してきた私たちの加害性も問題にしておられました。

2019年に加納さんが逝去され、蔵書の引き取り手を関係者が探したが見つからず、1年後、高雄さんに相談があり、「引き受けることを即決した」そうです。開設資金には、高雄さんの生涯の「盟友」であった中村隆子さんの基金が使われたとのこと、「サゴリ」のゆったりしたスペースの中には、中村隆子さんのビデオなども視聴できるスペースもあります。高雄さんと中村さんのシスターフッドからも、たくさんのことを学ぶことができるサゴリです。 

この個人資料室ができるまでには、場所探し、部屋の片づけ、棚の設置などの諸準備、その間に川崎と箱根から。蔵書書籍が1万点、資料が1000点届き、整理とデータ化など、大変だったそうですですが、多くの協力者の尽力もあり、開室に至ったそうです。加納さんの蔵書がゆったりした間隔で置かれた書架に並び、収集した資料も手に取ることができるように配架されています。多くの来館者が引き付けられるのは、棚にずらりと並ぶ『写真週報』だそうですが、戦時体制に向かう、戦時体制がつくり上げられていく社会の空気感までをも伝える資料が自由に閲覧できる仕組みです。
また研究資料1000点は、手助けしてくださる方々もおられ、整理が進んでいるそうですが、「山川菊栄記念会」のファイルもあり、手に取って見ると、記念会で2015年に実施した『覚書 幕末の水戸藩』の読書会のレジュメに加納さんが書き込みをした資料が残されていました。
おしゃれだった加納さんのストールが仕切りのように使われ、また愛用の帽子の数々も展示され、写真だけでなく、ご存命中の姿を偲ぶことができます。

また加納さんの蔵書だけでなく、高雄さんの蔵書を「ひろしま女性学研究所文庫」として併設しており、更に横浜国大名誉教授の加藤千賀子さんの研究に関連して「神崎清の資料」もこれから入る予定だそうです。
高雄さんは、資料と場をいかした「加納実紀代研究会」を発足させておられます。高雄さんはこの研究会を、資料室を存在たらしめる背骨と『労働者運動資料室会報』第60号で述べておられますが、すでに活発な活動が展開されているようです。若い世代の来館者も多数参加するという研究会の成果が期待されます。

加納さんの過去をたどり、次の世代へ伝えていく場として、インターセクショナリティに注目が集まる中、「サゴリ」がますます重要な意味を持つことを実感した「サゴリ訪問」でした。(山田敬子)

加納実紀代資料館「サゴリ」のサイト

https://sagori-kanomikiyo-library.jimdofree.com/

「虎に翼」ロスのなかに想う、婦人問題懇話会会員だった梶谷典子さんのこと。

空前の人気ドラマとなったNHKの「虎に翼」最終回の日、小雨のなか、観覧者を集めている明治大学博物館の展示も見ることができて、改めて、この作品の放送史上における歴史的重要性を感じました。というのも、山川菊栄が設立した、婦人問題懇話会の会員で、NHKで女性ディレクターとして朝の連続テレビドラマ小説の演出にたずさわっていた、梶谷典子さんの存在を思い出さないわけにはいかなかったからです。

梶谷典子さん(1932‐2022年)は、東京大学文学部で学び演劇部に所属していた方で、NHK入社当時からドラマ制作を目標にしていました。そのため通勤途上から体力づくりに努力していたようすは、『資料部・情報』No.2・山川菊栄記念会編「「雇用平等法をめざして~1978年、ある海外視察報告とその周辺」のなかの「伊藤恭子さんに聞く~1978 年の海外視察前後の思い出」で、梶谷さんと同じ婦人問題懇話会のマスコミ分科会だった伊藤さんが証言しています。

山川菊栄自身、新聞・雑誌、ラジオ、そしてテレビとメディアの技術的進化とともに生き、評論家として執筆をつづけ、また、戦後はラジオやテレビ番組で発言もしていました。メディア批判の文章も少なからず残しています。婦人問題懇話会では、そうした山川の批判的視点についてマスコミ分科会を中心に継承していきました。梶谷さんは婦人問題懇話会の会報に投稿を重ねていましたが、シナリオのスケッチのような対話形式で書かれているのが特徴でした。例えば、1977年12月・第27号では「意識は変えられるか」と題して

マスコミが問題!

アキ子「『婦人の十年』も三年目になろうっていうのに、対策は進まないわねえ」

ハル子「対策をすすめなければいけないと思う人が少なすぎるのよ。古い意識の人がまだまだ多くて・・・何とかして意識を改めないと・・・」

アキ子「意識を改めるって、具体的にどうするの?労働条件とか、保育所とか、ひとつひとつの問題について、できるところから改めていくことがまず必要なんじゃない?それが意識を改めるころにもつながるのよ」

ハル子「でも、ひとつひとつの問題が解決しにくいのは、古い意識がカベになっているからでしょう?」

アキ子「かべになっているのは、現在の体制だわ」

ハル子「その体制を、古い意識が支えているんじゃない?」(略)

ハル子「マスコミに働きかけることだって運動のうちよ、いいえ大きな運動だわ、マスコミにはそれだけの力があるんだもの。だから『世界行動計画』だって、マスコミの問題を大きく扱ってるじゃないの」

アキ子「ところが、国内行動計画はマスコミの問題に触れていない。結びのところで、行動を展開すべき主体の一つとして『マスメディア』が上げられてるだけ」(略)

と、1975年の国際女性年と男女平等を実現するための「世界行動計画」やそれをもとに策定された「国内行動計画」の問題点に触れています。このときすでに、梶谷さんは連続テレビ小説では「明日の風」(1962年)「繭子ひとり」(1971年)「北の家族」(1973年)「水色のとき」(1975年)「いちばん星」(1977年)で演出チームに加わり、女性ディレクターとして着実にキャリアを重ねておられました。

同時に、「家庭科の男女共修を進める会」の運動にも中心的にかかわって大きな成果を挙げられました。それは1973年12月に市川房枝の後押しもあって婦選会館での集会から始まりましたが、女性差別撤廃条約の批准に向けて男女共修は障害の一つであったため、運動は全国的に各団体へ広がっていきました。そして、高校家庭科の女子のみ必修、同じ時間には男性が体育実技をするといった、不平等な状況は是正されていきました。

NHK退職後は演劇活動に加わり、ウッチャンナンチャンの地方公演にも関係されていたと聞いています。

梶谷さんの時代からおよそ半世紀で「虎に翼」が放映されたことを心から喜びたいところですが、それだけ時間がかかったことはこの国のジェンダー平等意識が低すぎること、特に、人々の意識改革に深くかかわるメディア自体の男性支配が根強く残っているからだ、と思います。梶谷さんは、憲法14条とともに力強いメッセージを放った「虎に翼」を天国から見て、これからがとても楽しみと大きな拍手を送っておられることと思います。

(山口順子・元婦人問題懇話会マスコミ分科会)

*連続テレビ小説リストについては、NHKアーカイブスhttps://www.nhk.or.jp/archives/bangumi/を参照しました。梶谷典子さんの『婦人問題懇話会会報』掲載分は国立国会図書館のデジタルコレクションでだれでも読むことができます。また、「婦人問題懇話会会報」はWANのミニコミ図書館でも公開されています。

山川菊栄の生涯と業績のパネルをどうぞご活用ください。

先日、船橋市で開催された男女共同参画フェスティバル(9月7日)に、「山川菊栄の足跡をたどるパネル展」企画のため、記念会作成のパネルを貸し出しました。

このパネルは、2010年、生誕120年を記念して作成したもので、A1サイズ (841×594センチ)で、7枚と年譜1枚による生涯と業績を写真つきで説明するものとなっており、今回、山川菊栄賞一覧とともに山川菊栄記念会を説明するパネル1枚を新たにしました。合計9枚となります。

<パネルの内容>

山川菊栄と記念会について

生い立ちと思想形成
母性保護論争から 「婦人部」論争まで
戦時下の山川菊栄
労働省婦人少年局長としての活躍

その仕事
山川菊栄と海外
『婦人のこえ』 と婦人問題懇談会
年表

船橋ではパーテーションをうまく利用された展示を見ることができました。A1の大きさを並べるとかなりの壁面長が必要になるとの印象をもちますが、パーテーション表裏を利用すると、もう少し狭い空間でも展示することが可能かと思います。

貸出料は2週間程度で5000円(税込み、往復移動費用は別途ご負担いただきます)となっています。どうぞご活用くださいますようお願いいたします。

栗田隆子さんの新刊ほか、山川菊栄の情報が各所で発信されています。

昨年11月に神奈川県立図書館で開催された講演会でお話された栗田隆子さんが、このたび中高生向けの本を出版されました。『ハマれないまま、生きてます: こどもとおとなのあいだ (シリーズ「あいだで考える」)』(創元社、176頁)と題する、ご自身の不登校経験から書き起こした意欲作であり、この本の出版企画に涙ながらに抗った経緯を含めての異色の構成もとられています。昨年11月の神奈川県立図書館での講演会で触れられた、かながわ女性センターにあった山川菊栄文庫との出会いについても書かれており、学校に行かないでいた時間のなかで、かつて江の島にあったセンター図書館の静かなたたずまいと、古い洋書などの山川菊栄旧蔵書の並びが印象的だったとのことです。栗田さんは山川菊栄文庫に癒しの空間を発見し、そののち菊栄のフェミニストとしての主張に共鳴していくのでした。山川菊栄のドキュメンタリー映画にも出演されています。

6月には、昨年10月に参加した名古屋大学ジェンダーリサーチセンターから年報第6号が発行されました。ブックセミナー「未来から来たフェミニスト」の開催記録がまとめられています。こちらからPDF版でダウンロード可能です。

アイ女性会議が発行する『女のしんぶん』」誌上の三井マリ子さんによる長命な連載「叫ぶ芸術 ポスターに見る世界の女性たち」では、第132回(7月21日ブログポスティング)として「今も昔も封建制の呪縛」と題して労働省婦人少年局の婦人週間啓発ポスターが採り上げられています。山川菊栄が一斉試験によって初代婦人少年局長を追われていく経緯と、ご自身がとよなかの男女共同参画推進センターの初代館長職を失っていった体験が重ねられています。こちらのnoteで読めるようになっています。

最後になりますが、今年3月開催されたWikiGap in Kanagawaに合わせて、このサイトの「資料部情報」ページで公開しました、山川菊栄の翻訳原著一覧の作成経緯について、『労働者運動資料室会報』60号にまとめました。労働者運動資料室のご厚意で、拙文のみPDFにして公開させていただいております。こちらから利用いただければ幸いです。(山口順子)

山川菊栄記念会の新しいリーフレット誕生と「名言エッセンス」(『資料部情報』第4号)発行のお知らせ

昨日6月29日に終了しました、山川菊栄誕生の地でもある東京・千代田区の男女共同参画センターMIW企画による、パネル展(「女子の学びを切り拓いた女性たち~小説『らんたん』の登場人物たち」)ですが、『らんたん』の作者柚木麻子さんの講演会「シスターフッドのこれまでとこれから」も22日に開催され、オフライン・オンラインともに大盛況でした。会場で講演会に参加しました。

柚木さんは、女性たちをめぐる環境の変化の中で、「シスターフッド」が受け入れられてきたことをまず指摘されました。一方、その中で感じ続けてきた、日本の女性に対する変わらない「ジェンダーバイアス」についてもたくさんのエピソードとともに言及、でもシスターフッドで、しかも自然体で、それを乗り越えていく道も示唆されました。講演は、テンポの良い柚木ワールド全開のお話を堪能することができました。また終了後、柚木さんと『らんたん』における山川菊栄について、個人的にお話をする機会を得ましたが、登場人物の中で山川菊栄が「一番人気」であることなどをお話してくださいました。

このイベントに合わせて、記念会では新しいリーフレットを作成しました。表に現代的課題に通じる名言の数々をセレクトして配置し、裏には34回にわたる山川菊栄賞受賞作品を二本の柱にして、山川菊栄の生涯とともに記念会について説明しています。こちらからPDFでダウンロードできます。自由に配布したり、表裏を横に並べてA3版のポスターとしてお使いいただけます。ぜひご利用ください。

また、この名言の解説をまとめた「山川菊栄の名言エッセンス」『資料部情報』第4号もアップロードしました。1918年~1972年まで10点の名言について最新研究とともに、解説をつけました。新出の文献「維新の申し子」(1972年)も紹介しています。

『生誕130周年記念シンポジウム「山川菊栄、いま新しい」記録集』のチラシもできています。記念会で購入希望を受け付けていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

追悼・有賀夏紀さん

『アメリカ・フェミニズムの社会史』(勁草書房、1989年)で第8回山川菊栄賞を受賞され、のちに山川菊栄賞選考委員、2022年から世話人として活躍された埼玉大学名誉教授の有賀夏紀さんが闘病生活の末、去る3月7日に逝去されました。6月20日、偲ぶ会として山川菊栄記念会世話人会で集まりました。

有賀夏紀著『アメリカ・フェミニズムの社会史』
第8回山川菊栄受賞作『アメリカ・フェミニズムの社会史』(勁草書房、1989年)

有賀さんはかつてアメリカ学会会長も務められたほか、米国においてもアカデミズムのネットワークをたくさんおもちでした。2019年には、アメリカ芸術科学アカデミー外国人名誉会員にもなっています。

山川菊栄記念会の活動では、山川菊栄賞選定委員会での交流を気に入って大切にされていて、ともすれば議論で窮屈になりがちな会合の場をもちまえの明るさで盛り上げてくださいました。

山川菊栄のドキュメンタリー映画の翻訳もされていた語学力を、この記念会サイトの英語版で発揮していただくことになっていましたが、ご病気のため断念されたことは、さぞかし無念であったことかと推察されます。

改めて心からご冥福をお祈り申し上げますとともに、有賀さんの想いを継承しながら、このサイトの充実と情報発信に努めていきたいと思います。

*外部リンク:一橋大学ジェンダー社会科学研究センターサイトで、ありし日の有賀さんへのインタビュー動画が公開されています。

故・赤松良子さんが書いた山川菊栄の想い出

今年2月4日に急逝された赤松良子さんを偲ぶ会が、今月15日、東京品川の日本ユニセフ協会で執り行われました。赤松良子さんは第七代労働省婦人少年局長(のち婦人局長)に1982年就任し男女雇用機会均等法制定に向かって邁進していったとき、山川菊栄はすでに他界していましたが、自叙伝『続・忘れられぬ人々』(ドメス出版、2017年12月)にその想い出を書かれています。

このニュースで前回紹介した雑誌『婦人のこえ』終刊のあと、山川菊栄は1961年、71歳のときに婦人問題懇話会を設立しました。赤松さんは初期からの会員で、「若者の一人として会に入り、毎月の研究会で先生とお会いしたころの印象」として、「とてもおだやかで口数も少なく、みなりも質素で少しも偉ぶるところがなかった(略)本省の局長経験者、著名な研究者という方なのに、貧乏な若者たちと番茶を飲みながら、一緒になって議論を楽しんでいる姿が何とも嬉しくありがたいものであった。怖いもの知らずで若者(私を含む)は大先生と対等な気分で議論をぶっていたが今思えばもっと大切にしなければいけなかったのに、申しわけないことをした。」と振り返っておられます。

山川菊栄は女子英学塾での英語の専門教育に飽き足らず、東京大学進学を望んだ時、その規程には女子の入学を許可する明示がなく断念することになりました。それからおよそ半世紀がたち、赤松さんは津田から東京大学法学部に進み、新たな道を切り開こうとしている若き女性官僚として懇話会に現れました。そのような赤松さんを含めて、懇話会に集った若い人々への菊栄のさりげない包容力が番茶の湯気のむこうに感じられる一節です。

山川はじめ会員たちが待望していた冊子型で発刊された『婦人問題懇話会会報』第1号(1965年12月)をみると、「特集 主婦の就職」のもと、巻頭の山川菊栄「母の賃労働とパートタイム」につづき、赤松良子「主婦の就職-アメリカの実情と問題」、樋口恵子「主婦就労の動機としての教育費」などの記事が掲載されています。ほかに赤松良子さんが同会報に書いた記事や座談会についてはこちらから読むことができます。(以上、国立国会図書館デジタルコレクションへの外部リンク)

日本婦人問題懇話会の同窓会に必ず出席され、昨年10月もお元気そうでしたし、いつも凛とした変わらぬ姿勢に逆に励まされたものでした。

心からご冥福をお祈り申し上げます。

「虎に翼」のモデルの一人、女性弁護士・久米愛と雑誌『婦人のこえ』

『婦人公論』は『読売新聞』と並んで、山川菊栄が最も多く執筆したメディアですが、そのなかの内外時評という時事的なコラムに「婦人弁護士一職業の門戸開放」(1929年3月号)を書いています。当時の第56議会に司法省が女性弁護士を認める弁護士法改正案を提出したことを受けたものでした。法改正の理由は、それまで認められていた教員や医師と同様に女性特有の長所があるからとしており、菊栄はほかのすべての職業の門戸開放も同様に認められるべきと主張しています。1933(昭和8年)の弁護士法改正以前のことでした。

菊栄の記事から10年近くたとうとした1938(昭和13)年、日本で最初に弁護士になった女性たちと男女平等への道を切り開く苦闘を描くNHK朝の連続テレビ小説「虎に翼」が話題となっています。モデルとなった最初の女性弁護士三人のうち、中田正子(1910-2002年)は東京府立第二高等女学校(現・都立竹早高等学校)出身で、山川菊栄の後輩にあたります。また、久米愛(1911-1976年)は、山川菊栄が創刊した戦後の雑誌『婦人のこえ』に登場しています。

久米愛の執筆記事は、憲法や法律と女性の地位の関係、松川事件などへの所感など4本あり、ほかに参加した、1958年12月号の座談会「警職法と基本的人権」では、この年の10月8日に政府が突然国会に提出した警職法(警察官職務執行法改正案)の解説をして議論をリードしています。路上での任意の職務質問や携帯品のチェックを警官ができるようになるこの法律が新憲法下で保障された基本的人権の制限につながることから、当時の女性団体がこぞって大反対運動を展開していることに言及し、最後の方で、仕事と家庭の両立問題にテーマがうつると、本人が弁護士資格を得た時期について、結婚後、試験に通ったと語っています。

戦前に厳しい検閲や妨害による言論弾圧を経験したのち、戦後ようやく手にした言論の自由のもと、山川菊栄はこの雑誌『婦人のこえ』を社会党左派系の雑誌として1953年10月に発刊し共同編集責任者の一人に就きました。編集発行人は菅谷直子(1909-2006年)が務めていました。

創刊3周年記念号(1956年10月号)をみると、歌手の淡谷のり子が祝辞を寄せ、資金集めのコンサートも開催していますが、それは社友の一人だったからでした。巻末の社友名簿ではアイウエオ順に淡谷以下、36名の個人、そして団体として日本労働組合総評議会傘下各労働組合婦人部、全国産業別労働組合、連合傘下各労働組合婦人部が参加。久米愛も弁護士として名を連ねており、ほかに作家、評論家として石垣綾子、圓地文子、神近市子、女優の杉村春子、長岡照子、画家として、小川マリ、三岸節子、田所芙美子など多彩な人名がみられます。春陽会で初の女性会員となった小川マリ(1901-2006年)は『婦人のこえ』の表紙絵として花や静物の作品を提供しました。山川菊栄が執筆編集に関わった多くのメディアはいわゆる言論系の文字レイアウトだけの表紙が多かったなかで、この雑誌の清楚なはなやかさを際立たせています。ただ、雑誌は手弁当で編集され、イラスト代金も支払われていなかったとのことで、財政的に行き詰まり山川菊栄は夫・均の遺品のコートを売ってまでして資金を作りましたが、1961年9月廃刊に至りました(菅谷直子『不屈の女性ー山川菊栄の後半生』(海燕書房、1988年)。おそらく久米愛の座談会への出席もボランティアで行われたと思われます。

『婦人のこえ』の目次は「日本婦人問題懇話会の軌跡」サイト内でPDFファイルにより提供していますのでご利用ください。

*架蔵本の『婦人のこえ』表紙絵の掲出につき、小川洋子様の御理解御協力をいただきましたことに感謝申し上げます。(山口順子)

藤沢で山川菊栄の読書会が始まりました。

神奈川県藤沢の村岡は山川菊栄が均とともに移り住み「湘南うづら園」を経営し、それを閉じた後も終生住まい続けた土地です。当時、鎌倉郡村岡村といった、その村で人々からの聞きとりや厚生省研究所の統計資料も利用して著したのが『わが住む村』(1943年、三国書房)でした。この本を題材にしながら小さな読書会が始まりました。

気持ちよく晴れて初夏の光がまぶしい5月18日(土)の午後、4月にドキュメンタリー映画上映の行われたBOOKYさんに、藤沢在住を中心とする菊栄ファンが7名が集まり、『わが住む村』の読書感想と懇談で、2時間があっという間に過ぎました。

自宅があった村岡の公民館には「山川均宅」と書かれている大きな地図が掲げられていますが、初めて行った人はちょっと気が付きにくかったという声もあります。均の直筆と思われる端正な線と字でかかれた、当時の古地図を見つめながら、現在との変化に話題が集中。いまもこれはある、ここは変わった、との会話の中で、改めて、菊栄が歩いて聞き取りにまわった範囲の広さも浮き彫りになりました。宅地開発が進みすっかり風景が変わってしまっていても、地元とそこで暮らしやすい生活への想いを菊栄から引き継ぎたい、という熱気にあふれたこの読書会は、来月も『わが住む村』で続きます。

各自、私のいち推し「章」を語るというゆるい課題で、6月23日(日)14時から16時、BOOKYさんのおいしい飲み物やお菓子をそれぞれで注文しお支払いください。『わが住む村』の持参もお忘れなく。問い合わせは山川菊栄記念会にお願いします。

日程変更のお知らせはこちらのページに追記します。

WikiGap in Kanagawaオフライン参加とその副産物~山川菊栄の翻訳文献一覧表ベータ版公開

画像はWikiGap in Kanagawa実行委員会から提供いただきました。

去る3月3日に神奈川県立図書館で開催された「WikiGap in Kanagawa」オフラインイベントに参加しました。5年ぶりの対面開催ということもあり、定員20名は満席で、遠くは札幌からの遠路来場者もあり、高校三年生の男子学生を含む老若男女が相集いました。午前は、記念会から事務局長の山田が「山川菊栄ってどんな人」、山口からサイトニュースのこの一年のトピックを拾い、県立図書館の島課長から山川菊栄文庫資料について紹介がありました。山川菊栄について初めて知ったという参加者も少なくありませんでした。

午後はWikipediaのジェンダーバイヤスを変えるWikiGapの趣旨に沿って、「山川菊栄」ページや神奈川ゆかりの女性たちを中心に、ページの改訂や作成作業が、それぞれ参加者の興味に沿って行われました。8日までオンラインでも継続中です。また、ページ候補のリストも豊富に用意されています。

この活動のために県立図書館では活動支援として、担当司書の方が1階の山川菊栄記念コーナーで常設されている書籍や閉架図書など関係するものを会場に集めてくださいました。ご支援に改めて感謝申し上げます。

このイベントに後援参加する準備段階のやりとりから、山川菊栄が翻訳紹介した海外の女性たちのページで日本語以外の言語では多数存在するのに、日本語ページがない場合があることがわかりました。当日、ベテランのガチペディアさんたちが、ギルマンビアティのページを早速作ってくださったり山川菊栄翻訳との関係を書き加えてくださいました。

これに応えて、この2年ほど作業してきた「山川菊栄の翻訳文献一覧ー原著とその作者にみる国際性」を未定稿ながら公開することにいたしました。資料部情報extra-1番外発信として、PDFではなくgooglespreadシートに共有リンクをつけています。まだ不明事項も多いため随時更新していきますので、よろしくお願いいたします。

婦人問題懇話会の活動を通して、山川菊栄が実践していたフェミニズムの共同知の営みが、WikiGapを通じて広がっていくことを願っています。最後になりますが、この素晴らしい企画を実現してくださったWikiGap in Kanagawa実行委員会の皆様に心から感謝申し上げます。

2024年3月17日追記:ウィキペディアのコミュニティ情報交換の英語版サイトDiffに3月3日の参加者の一人Wasdakuramonこと門倉百合子さんがイベントレポートを通じて山川菊栄紹介も書いてくださいました。 また、ご本人のブログでも参加記を投稿してくださいました。門倉さんは、渋沢栄一記念財団で渋沢栄一のデータベース開発にも関わり、独立系司書として『70歳からのウィキペディアン』(郵研社、2023年)を著わした方です。門倉さん本当にありがとうございました。

2024年5月15日追記:『白水社の本棚』(2024年春号)に参加者の北村紗枝さんの「汗牛充棟だより13  ひなまつりにウィキペディアを書く〜WikiGap in Kanagawa 2024」https://www.hakusuisha.co.jp/hondana/ が掲載されたとの連絡が実行委員会の田子環さんからいただきました。お知らせいただきありがとうございました。