山崎雅弘さんの『戦争を甘く見る空気 1930年代と似た道を進む現代日本』 (朝日出版)が出版されました。

日中戦争後から戦時体制へと突き進んだ1937年と、現代の日本を比較しその類似性を考察をした山﨑雅弘さんの新刊『戦争を甘く見る空気 1930年代と似た道を進む現代日本』が出版されました(朝日新書)。

第1章のなかで、主婦の立場、生活者からの視線で、日中戦争勃発後の日本社会を記録した山川菊栄の文章を紹介されています。それは、雑誌『改造』(1937年12月号)に発表された「消費統制と婦人」(『山川菊栄集』第6巻所収)です。 日中戦争開始前より高騰してきた物価が日々の暮らしや台所に及ぼしていく影響について具体的に述べながら、政府批判をしているものです。

戦前回帰と1930年代同様の空気感のまん延は多くの人が指摘してきているところですが、現政権がそれに拍車をかけ留まるところがない状況を呈してきています。まっこうから政府批判をしない、連日続く若い世代を中心とした市民デモも報じようとしないメディアも大きな問題です。

そのようななか、『毎日新聞』(2026年8月26日朝刊8面)のオピニオン・論点のページでは、「女性とナショナリズム」というテーマで、二人の女性がインタビューを受ける形で警告的意見を述べています。一人は、鈴木裕子さんが市川房枝を例として女性活躍の名のもとに、戦争協力に率先していったことを指摘し、女性と戦争の問題は加害と被害の二重性があり、加害の歴史に学ぶ意義があると主張。もう一人はパリ第8大学に留学中の森野咲さんは、高村逸枝の研究を通じて、極右と女性というテーマに関心を持つようになったとのこと。高村逸枝は、女性の戦争参加を唱えるプロパガンダを進める文章を書くとともに、能動的な主体をめざして女性解放の名で侵略を正当化していった過程において、抑圧される側の視点がなく、いまの極右の排外的言説に通じるものがあると述べています。

女性=平和志向という概念が簡単に覆されることを、山川菊栄は第1次世界大戦後の英国で参政権運動の立役者だったフェミニストたちが戦争協力に向かったことを通じて批判し、第2次大戦でも同様のことが起きるだろうと警告していました。そして全くそのとおりになりました。戦前戦後と一貫して反戦平和の主張を貫き、言論の自由を得て、ようやく念願の女性の女性による女性のためのメディアを発行していきます。『婦人のこえ』とそれが休刊となったのちの『婦人問題懇話会会報』であり、いずれも女性たちによる自由な論議と主張が誌上で繰り広げられました。

山川は、1970年に高度経済成長への懐疑とともに戦争をする国への方向転換を厳しく指摘し、「これらに一票投ずることは自分で自分の首をしめることと知らねばならぬ」と述べています(「何のための高度成長か」『婦人問題懇話会会報』12号、1970年5月)。その言葉は、いよいよ切実さを増してきた感があり大きな危機感を覚えます。

下記リンクを参考にしてお読みいただくことができます。

<参考文献・サイト>



「虎に翼」のモデルの一人、女性弁護士・久米愛と雑誌『婦人のこえ』

『婦人公論』は『読売新聞』と並んで、山川菊栄が最も多く執筆したメディアですが、そのなかの内外時評という時事的なコラムに「婦人弁護士一職業の門戸開放」(1929年3月号)を書いています。当時の第56議会に司法省が女性弁護士を認める弁護士法改正案を提出したことを受けたものでした。法改正の理由は、それまで認められていた教員や医師と同様に女性特有の長所があるからとしており、菊栄はほかのすべての職業の門戸開放も同様に認められるべきと主張しています。1933(昭和8年)の弁護士法改正以前のことでした。

菊栄の記事から10年近くたとうとした1938(昭和13)年、日本で最初に弁護士になった女性たちと男女平等への道を切り開く苦闘を描くNHK朝の連続テレビ小説「虎に翼」が話題となっています。モデルとなった最初の女性弁護士三人のうち、中田正子(1910-2002年)は東京府立第二高等女学校(現・都立竹早高等学校)出身で、山川菊栄の後輩にあたります。また、久米愛(1911-1976年)は、山川菊栄が創刊した戦後の雑誌『婦人のこえ』に登場しています。

久米愛の執筆記事は、憲法や法律と女性の地位の関係、松川事件などへの所感など4本あり、ほかに参加した、1958年12月号の座談会「警職法と基本的人権」では、この年の10月8日に政府が突然国会に提出した警職法(警察官職務執行法改正案)の解説をして議論をリードしています。路上での任意の職務質問や携帯品のチェックを警官ができるようになるこの法律が新憲法下で保障された基本的人権の制限につながることから、当時の女性団体がこぞって大反対運動を展開していることに言及し、最後の方で、仕事と家庭の両立問題にテーマがうつると、本人が弁護士資格を得た時期について、結婚後、試験に通ったと語っています。

戦前に厳しい検閲や妨害による言論弾圧を経験したのち、戦後ようやく手にした言論の自由のもと、山川菊栄はこの雑誌『婦人のこえ』を社会党左派系の雑誌として1953年10月に発刊し共同編集責任者の一人に就きました。編集発行人は菅谷直子(1909-2006年)が務めていました。

創刊3周年記念号(1956年10月号)をみると、歌手の淡谷のり子が祝辞を寄せ、資金集めのコンサートも開催していますが、それは社友の一人だったからでした。巻末の社友名簿ではアイウエオ順に淡谷以下、36名の個人、そして団体として日本労働組合総評議会傘下各労働組合婦人部、全国産業別労働組合、連合傘下各労働組合婦人部が参加。久米愛も弁護士として名を連ねており、ほかに作家、評論家として石垣綾子、圓地文子、神近市子、女優の杉村春子、長岡照子、画家として、小川マリ、三岸節子、田所芙美子など多彩な人名がみられます。春陽会で初の女性会員となった小川マリ(1901-2006年)は『婦人のこえ』の表紙絵として花や静物の作品を提供しました。山川菊栄が執筆編集に関わった多くのメディアはいわゆる言論系の文字レイアウトだけの表紙が多かったなかで、この雑誌の清楚なはなやかさを際立たせています。ただ、雑誌は手弁当で編集され、イラスト代金も支払われていなかったとのことで、財政的に行き詰まり山川菊栄は夫・均の遺品のコートを売ってまでして資金を作りましたが、1961年9月廃刊に至りました(菅谷直子『不屈の女性ー山川菊栄の後半生』(海燕書房、1988年)。おそらく久米愛の座談会への出席もボランティアで行われたと思われます。

『婦人のこえ』の目次は「日本婦人問題懇話会の軌跡」サイト内でPDFファイルにより提供していますのでご利用ください。

*架蔵本の『婦人のこえ』表紙絵の掲出につき、小川洋子様の御理解御協力をいただきましたことに感謝申し上げます。(山口順子)