故・井上輝子さんの論考を英訳した書籍「日本におけるフェミニズムのハンドブック」について

『日本のフェミニズムハンドブック』

2021年8月10日に亡くなった、山川菊栄記念会代表だった井上輝子さんが賀谷恵美子さんとともに書いた論文を含む、ゲルマー、ヴェーア編 Handbook of Feminisms in Japan(Japan Documents, JA) 『 日本におけるフェミニズム・ハンドブック』、極東書店、2025年)がすでに刊行されています。

アンドレア・ゲルマー氏(ハインリヒ・ハイネ大学デュッセルドルフ校)とウルリケ・ヴェーア氏(広島市立大学)の二人が編者となって、46人の国内外の気鋭のジェンダー研究者を集め、現代日本のフェミニズムの動向を多角的に俯瞰してみせているもので、特に海外の日本研究者を読者対象としています。テーマはラディカルなフェミニズム、母性主義、アナーキズム、文学、宗教、ポルノグラフィといった広範なトピックを余すところなくすくいあげようとしており、ハンドブックといってもずっしりとした重厚さをもっています。

井上輝子さんと賀谷恵美子さんの共著論文は、この冒頭の第1章に置かれ、Academia: Gender Studies, Women’s Studies and Feminist Movements ( 「アカデミア:ジェンダースタディ、女性学とフェミニズム運動」)として掲載されています。山川菊栄がつくった婦人問題懇話会の会報で、1974年に二人は合衆国のWomen’s Studyの動向を「女性学」として紹介しました(賀谷恵美子、辺(ほとり)輝子共著「アメリカの諸大学の女性学講座」『婦人問題懇話会会報』20号)。それから半世紀近い歳月のジェンダー研究と女性学、そして市民運動の関係性を論述した内容となっています。

山川菊栄については、エリッサ・フェイソンさんの書いた第31章「Socialism and Marxism: Feminist Critique of Women’s Labor under Capitalism( 社会主義とマルキシズム:資本主義下女性労働のフェミニスト評論)」のなかで、戦前からの評論活動と赤爛会結成、そして戦後の労働省婦人少年局長就任に触られています。

フェイソンさんと記念会は交流があり、2012年7月に来日されたとき、まだ江の島にあった神奈川県立女性総合センターと山川菊栄文庫の見学に、井上輝子さん、岡部雅子さん、佐藤礼次さんの三人が同行したりしたことがありました。井上さんは鬼籍に入りましたが、こうして同じ書籍に名前が並んだことをきっと喜んでいることでしょう。

なお、編者のゲルマー氏とヴェーア氏にヴェラ・マッキー氏が加わった、Gender, Nation and State in Modern Japan(「ジェンダー、近代日本の国民国家と国家」)がルートリッジから2014年に刊行され、英語圏の基本書として流通しています。

*A.ゲルマー、U.ヴェール編 「日本におけるフェミニズム・ハンドブック
Handbook of Feminisms in Japan」(28,875円・税込)の購入については、極東書店サイトへお申し込みを。

*井上輝子さんについては、「日本婦人問題懇話会の軌跡サイト」に追悼ページがあります。

女性の権利デーイベントで山上千恵子監督の「北京NGOフォーラム」が上映されます。

ミモザウエイズのリボアル堀井なみのさんからのご案内をいただきました。

今週末の7月26日(土)、30年前の北京NGOフォーラムを振り返り現状と今後を考えるオンラインイベント(19:00‐21:00、参加費無料)のなかで、山上千恵子監督の貴重な記録作品「北京NGOフォーラム」(25分)が上映され、山上さんが解説をされます。その後、北京JACの船橋さんやジョイセフの草の洋美さん、SRHRユースアライアンスの金子絵美利さん、栗原さんたちによるリレートークが展開されるプログラムです。

参加費無料でまだ、参加申し込みを受け付けているとのことです。
https://mimozapekin.peatix.com/ へアクセスを急いでしてください。

元フィンランド文化センター所長のアンナ=マリア・ウィルヤネンさんの本に山川菊栄の名前を発見。

フィンランド大使館に付属したフィンランド文化センターで、編み物クラブや文学、ITなど文化講演シリーズなどを企画実施したアンナ=マリア・ウィルヤネンさんが、昨年12月に7年余りの任期を終えてフィンランドにかえっていきました。このほど『フィンランド流<ポジティブ変換>のすすめ 女性のエンパワーメントのために』(国書刊行会、2025年3月)という本を上梓されました。日本とフィンランドの女性の地位や権利状況を比較しながら書かれたエッセイです。このなかに彼女が行った日本人へのアンケート結果が少数ながら紹介されており、女性のロールモデルとして回答された例として広中和歌子、緒方貞子、といった人たちとともに、山川菊栄の名前があげられています。

世界でトップクラスの女性の社会進出が進む北欧のなかでも、若い女性のマリン前首相が率いる内閣により一層女性の地位向上が進んだようすや、19世紀から20世紀のフィンランド女性史の概観とも合わせて読むと、ムーミンやマリメッコ以外の、知られざるフィンランドのジェンダー平等状況がわかる書籍となっています。

美術史で博士号をもつ彼女は在留中に武蔵野美術大学で講義ももっていましたが、まもなく、ある美術館館長の職とともに、新たな一歩を踏み出されるとのことです。


 

故・岡部雅子さんの旧居で見つかった古いミシンのこと(その2)

山川菊栄が遺した資料とともにミシンがあるという話をずいぶん前に聞いていました。前回家事のイメージのない山川菊栄と書きましたが、ミシンを使っていたというのは意外な感じがします。

以前『文藝春秋』のエッセイ「まず手近なところから」(『文藝春秋』1935年2月号・『山川菊栄集6』に収録)」に触れましたが、従弟のアンチフェミニストの砲兵中尉が子育てのためミシン仕事を操っていることと書いたついでに、夫も息子もミシンで綻びくらいは直していると書いています。そのミシンがこれということでしょう。

岡部さんの旧居でミシンが見つかるかもしれないと淡い期待をもっていましたが、、部屋の奥から記念会の佐藤さんが執念のように見つけ出したときは、一同びっくりしました。手回し式のもので、「Anker」というブランド名や碇のマークが大きく書かれています。撮影画像で検索すると、なんと大正時代にドイツから輸入され、日本で初めて使われはじめた銘柄だとのことです(http://innocent-vintage.com/view/item/000000006386<2025年5月29日>)。

使い込まれたあとのあるミシンでどんなものが縫われたのか不明ですが、藤沢の弥勒寺の近所をまわってお年寄りから話を聞いたとき、着物を仕立て直した洋服を着ていたことが『わが住む村』にでてきます。いまでいう着物のリフォームをしたのだろうか、などといろいろと想像が膨らんでいくミシンです。

山川菊栄が遺した藤の花の咲き誇る、故・岡部雅子の旧居を訪ねました(その1)

昨年12月に亡くなった岡部雅子さんの遺された資料整理について、山川菊栄記念会もお手伝いを始めています。藤沢市の郊外に旧居を訪ねると、岡部さんの面影を感じさせる妹さんが出迎えてくださいました。

山川菊栄・均夫妻と同じく花を育てるのが趣味だった岡部さんは、山川菊栄が亡くなった後の形見分けのように、弥勒寺の家にあった藤の木を庭に移植していました。

ちょうどその花盛りのときに合わせて、岡部さんが遺した珍しい藤の花のレシピをいただくことができました。藤の花は食用なのか?と思いますが、菊の花のようにゆでて酢漬けにしたものを少しずつ長寿の薬替わりに山川菊栄が生前、食していたとのことです。家事をしていたイメージがあまりない山川菊栄ですが、夫のために常に消化のよい食事をこころがけていたといいます。

帰宅後に、少しアレンジして酢の物のように、我が家の藤の花で作ってみました。藤の花を房からとるときにふんわりと良い香りが立ちます。ゆでると青くなった後、酢につけると元の紫色がよみがえりました。山川菊栄と岡部さんと同じものを食べられたという感慨にひたるひと時を過ごせました。長寿にもあやかりたいものです。

山川菊栄棚が藤沢の一箱古本市に登場します。

ほぼ毎月、「わが住む村」の読書会が開催されている藤沢のBOOKYさんで、5月17日(土)12:00から18:00まで、一箱古本市が開催されます。山川菊栄の棚も一箱出店することになりました。山川菊栄記念会出版物以外にも、フェミニズムや平和関係の本を用意しています。どうぞお立ち寄りください。

なお次回の読書会は6月8日です。参加をお待ちしています。

『明星』に青山菊栄の翻訳小品が掲載されていました。

山川菊栄が、森田菊栄として生まれてから135年がたとうとしています。東京府立第二高等女学校在学中に、母方の祖父であり水戸藩藩儒であった青山延寿の跡をつぎ、青山菊栄を名乗りました。父親の事業の失敗から家族の経済的な状況もあって、女学校卒業後は一度国語の教師をめざしますが、すでに古典の多くを読破していたため学習レベルに飽き足りず、麹町近くの教会の成美女学校で英語を、そして同じ教会で開催され始めた、女性の作家育生のための閨秀文学会に参加します。しかし、ほどなく閉じられてしまいます。その会を通じて与謝野晶子や平塚らいてうとも知り合い、馬場孤蝶に師事してその自宅で大陸文学、すなわちフランスやロシアの自然主義文学を英訳から学んでいきました。

その成果ともいえるドーデ著「月曜物語」からの2作品の梗概翻訳が『明星』に掲載されていたことを確認し、論考としてこのほど『資料部情報』5号で公開しました。馬場孤蝶の和訳指導プロセスそして多感な青春時代が日本の繰り返される対外戦争の時期と重なり、家族の情報環境のなかで、平和主義、人道主義の原点がはぐくまれていたことを考察しました。ご一読いただければ幸いです。(山口順子)

国立公文書館デジタルデータベースで山川菊栄旧蔵労働省婦人少年局資料が公開となりました

このほど、山川菊栄記念会から国立公文書館に寄贈した山川菊栄旧蔵の文書65件が、デジタルデータベースに搭載となり、検索可能となりました。初代労働省婦人少年局長として指揮をとった調査の報告書が主ですが、亡くなる年まで婦人少年局が送付を続けていたことを示す資料もあります。

女性官僚としては初の寄贈文書であり、所蔵は筑波の分館ではなく、東京北の丸(東西線竹橋駅)の国立公文書館本館となりましたので、閲覧申請でその場でどなたでもご覧になれます。

いくつかの文書には「山川蔵書印」が押されていたり書き込みもある、いわゆる本人の手択本となります。正誤表の数値を丁寧に書き写して正確性を保とうとしており、統計調査資料へのこだわりが見受けられるところもあります。

資料の来歴は、神奈川県立かながわ女性センターを経て神奈川県立図書館所蔵となっていましたが、重複本にあたるものについては先だっての取り決めにより、山川菊栄記念会が譲渡を受けたもので、それらを国立公文書館に寄贈したものです。経緯についても文書の詳細説明に書かれており、間違えられやすい労働省婦人少年局の「婦人労働課」、「婦人課」、「年少労働課」の3課の説明とともに、組織の変遷も合わせて記されています。

2年前からこのニュースでも報告してきた労働省婦人少年局資料の厚生労働省による譲渡事業の問題点、全国のどこに分散所蔵されたいったのか不明であることは残るままですが、記念会としては、今後も注視していきたいと思います。

国際女性デーのあとも、フェミニズムを映像にしてきた人々に光をあてた展示が続いています。

去る3月8日、渋谷で行われたウィメンズマーチ2025に参加してきました。50を超える団体、600人以上の参加と大成功となりました。


そして、先日もこのニュースに掲載した東京京橋の国立映画アーカイブの特集「日本の女性映画人}第3段の上映が続いています(3月23日まで)。

2月26日には。「ルッキング・フォー・フミコ」と「女たちの歴史プロジェクト」の上映前に、栗原奈名子さん、山上千恵子さん、瀬山紀子さんの舞台あいさつがあり、それぞれ国立映画アーカイブの収蔵作品になったことについて感慨を話されました。山川菊栄のドキュメンタリー映画の監督でもある山上さんは「やっと映画監督として認められたような気がする」と。

会場には映画に出演した70年代のフェミニズム運動の活動家たちの往年の面影がありましたが、そのなかにカリスマ的ともいえる中心人物で、昨年亡くなった田中美津さんの残影が映画の一シーンのように垣間見えるようでした。さらに、山川菊栄記念会代表であった井上輝子さんとこうした映画の感想を交換することができないこと、井上さんでしか書けなかったはずの「日本のフェミニズム」パート2が読めないことは、望んでもかなわぬこととはいえ、とても残念なことです。

一方、東京竹橋の国立近代美術館の常設展示の一角でも「フェミニズムと映像表現(2025.2.11–6.15)」が開催されています(6月15日まで)。日本と海外のフェミニズムのショートフィルムの70年代から現代までを概観することができます。山上監督が神戸で参加した鼎談記録の資料も展示されています。

スマホで手軽に動画編集加工もできて瞬時に世界発信ができるようになった今、AIとともに加速化するメディアの変化のなかで、映像とともに求めていく先にある未来社会をどう変えたいのか、立ち止まって考える契機を提起するような連動する二つの上映と展示となっています。

森鴎外記念館の特別展が終わりましたが、山川菊栄がハガキを出した山口武美という人についてひとこと

昨年から開催されていた東京・文京区立森鴎外記念館の特別展「111枚のはがきの世界―伝えた思い、伝わる魅力」展が、先月の1月13日に終わりました。コンクリートうちっぱなしの無機質な地下の展示空間に、色とりどりに並んだ110枚のハガキは圧巻で、手書きの絵や短歌、俳句などの添え書きから送りての個性もうかがえて、丁寧な解説もあいまってとても楽しめる内容でした。郵便料金値上げに伴って年賀状も激減しているなか、改めて多様性を見せていたアナログコミュニケーション時代を見直す時間ともなりました。

山川夫妻のハガキは昭和の初期と戦後の時代の別々のパートに展示されていました。このうち菊栄が1946(昭和21)年に光文社の山口武美にあてたハガキは原稿依頼を受けたものの、家族の看病を理由に断っていると思われる返信で、宛先の山口武美を不明とされていたのですが、心当たりがあって少し調べてみることにしました。

実は筆者は、山口武美(ヤマグチタケミ)の御子息にあたる山口静一埼玉大学名誉教授とは、1980年代に河鍋暁斎研究会の草創期に交流がありました。暁斎の曾孫で戦後早期に東大で医学博士を女性として取得した、眼科医・河鍋楠美氏の情熱的なイニシアティブで「暁斎絵日記」の解読や各地見学会などがあり、そうした会合の折に、山口教授が明治前期の戯作本など大量のコレクションを遺された御尊父の略年譜編纂について話しておられたことを記憶していました。それらの戯作本に文明開化に翻弄される庶民の喜怒哀楽を描いた河鍋暁斎の挿絵や、その弟子の鹿鳴館設計で知られるジョサイア・コンドル(暁英)について山口教授は研究を深化されていきました。

改めて、東京都立中央図書館に寄贈されていた『山口武美略年譜』(1986年、燈篭堂)にあたってみると、河鍋暁斎デザインによる千代紙で作られた表紙が色鮮やかにあらわれ、山口静一氏がワープロ打ちしたと思われるテキストを通じて、山口武美は、戦後光文社で総合雑誌『光』や光文新書の編集に携わり定年まで勤められたことがわかりました。

「略年譜」によると山口武美は1902(明治35)年、青森県に生まれ東洋大学を卒業後、『従吾諸好』や『書物展望』編集出版で知られる石川巌に師事し、収集した膨大な古書をもとに調査を重ねて、3つの書誌編さんの仕事、すなわち『日本沙翁書目集覧』『日本映画書誌』『明治前期戯作本書目』を残しました。また詩作、自由俳句の創作もあり、戦後の第21回芥川賞次点にもなった小説「雪明り」(筆名は光永鐵夫)と多彩な文芸活動をしていました。遺されたカードを拡充しながら「芥川龍之介作品収載教科書書目」を山口教授が『埼玉大学紀要』(埼玉大学教養部、34号、1985年11月)にまとめられています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1797705

さて、展示された1946年8月17日発(推定)のハガキにもどってみると、敗戦直後の1945年10月に光文社から創刊された総合雑誌『光』の執筆依頼を断ったという背景がみえてきます。いったんは執筆依頼を断っていた菊栄ですが、「評論家・労働省婦人少年局長」の肩書で、1948年の『光』3月号に「嫁と姑」という見開き2ページのエッセイを執筆しているので、後日に求めに応えていたことがわかります。ただし、山口武美の名前は編集後記には見当たりませんでした。

このエッセイ「嫁と姑」は母系制度から家父長制の定着のなかで嫁と姑という二人の女性の確執関係が生まれてきたという女性史的背景から起筆して、新しい社会のもとで慣習にとらわれたりしながら嫁いじめになりがちな関係性をどう克服していくか、別居も視野にいれながら世代差を越えた相互理解が必要と、理想主義的に書いています。戦前から評論家として論壇の第一線にいた山川菊栄は『婦人公論』『女性改造』『婦人の友』といった女性雑誌だけではなく、総合雑誌の上で男性執筆者と肩を並べて堂々とした意見を表明していました。この『光』誌も書き手も読み手も男性がほとんどと思われるなか、多くの家族で男性が見て見ぬふりをして過ごしている小さな権力闘争の問題を示したのではないかと思われます。

山口武美が1980年3月に鬼籍に入ったのち、自由民権100年を背景に、雑誌『状況と主体』に遺稿である「近代反体制ノン・フィクション」が20回にわたり特別連載として掲載されています(1981年6月~1983年5月号)。国立国会図書館のデジタルコレクションで読むことができますが、その冒頭には1876(明治9)年に茨城県で起きた農民反乱をテーマにした「探誠夢復路」が置かれています。山川菊栄が戦後最初に書き、のちに『覚書 幕末の水戸藩』の冒頭に掲げた、生瀬の農民騒動の話と一脈通じるものを山口武美氏も残していたのでした。(山口順子、河鍋暁斎友の会会員)

*山口武美の読み方は、日外アソシエーツ株式会社 編『日本著者名総目録』1948~1976 6 (個人著者名 み~わ),日外アソシエーツ,1989.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12237336によった。