元フィンランド文化センター所長のアンナ=マリア・ウィルヤネンさんの本に山川菊栄の名前を発見。

フィンランド大使館に付属したフィンランド文化センターで、編み物クラブや文学、ITなど文化講演シリーズなどを企画実施したアンナ=マリア・ウィルヤネンさんが、昨年12月に7年余りの任期を終えてフィンランドにかえっていきました。このほど『フィンランド流<ポジティブ変換>のすすめ 女性のエンパワーメントのために』(国書刊行会、2025年3月)という本を上梓されました。日本とフィンランドの女性の地位や権利状況を比較しながら書かれたエッセイです。このなかに彼女が行った日本人へのアンケート結果が少数ながら紹介されており、女性のロールモデルとして回答された例として広中和歌子、緒方貞子、といった人たちとともに、山川菊栄の名前があげられています。

世界でトップクラスの女性の社会進出が進む北欧のなかでも、若い女性のマリン前首相が率いる内閣により一層女性の地位向上が進んだようすや、19世紀から20世紀のフィンランド女性史の概観とも合わせて読むと、ムーミンやマリメッコ以外の、知られざるフィンランドのジェンダー平等状況がわかる書籍となっています。

美術史で博士号をもつ彼女は在留中に武蔵野美術大学で講義ももっていましたが、まもなく、ある美術館館長の職とともに、新たな一歩を踏み出されるとのことです。


 

故・岡部雅子さんの旧居で見つかった古いミシンのこと(その2)

山川菊栄が遺した資料とともにミシンがあるという話をずいぶん前に聞いていました。前回家事のイメージのない山川菊栄と書きましたが、ミシンを使っていたというのは意外な感じがします。

以前『文藝春秋』のエッセイ「まず手近なところから」(『文藝春秋』1935年2月号・『山川菊栄集6』に収録)」に触れましたが、従弟のアンチフェミニストの砲兵中尉が子育てのためミシン仕事を操っていることと書いたついでに、夫も息子もミシンで綻びくらいは直していると書いています。そのミシンがこれということでしょう。

岡部さんの旧居でミシンが見つかるかもしれないと淡い期待をもっていましたが、、部屋の奥から記念会の佐藤さんが執念のように見つけ出したときは、一同びっくりしました。手回し式のもので、「Anker」というブランド名や碇のマークが大きく書かれています。撮影画像で検索すると、なんと大正時代にドイツから輸入され、日本で初めて使われはじめた銘柄だとのことです(http://innocent-vintage.com/view/item/000000006386<2025年5月29日>)。

使い込まれたあとのあるミシンでどんなものが縫われたのか不明ですが、藤沢の弥勒寺の近所をまわってお年寄りから話を聞いたとき、着物を仕立て直した洋服を着ていたことが『わが住む村』にでてきます。いまでいう着物のリフォームをしたのだろうか、などといろいろと想像が膨らんでいくミシンです。

山川菊栄が遺した藤の花の咲き誇る、故・岡部雅子の旧居を訪ねました(その1)

昨年12月に亡くなった岡部雅子さんの遺された資料整理について、山川菊栄記念会もお手伝いを始めています。藤沢市の郊外に旧居を訪ねると、岡部さんの面影を感じさせる妹さんが出迎えてくださいました。

山川菊栄・均夫妻と同じく花を育てるのが趣味だった岡部さんは、山川菊栄が亡くなった後の形見分けのように、弥勒寺の家にあった藤の木を庭に移植していました。

ちょうどその花盛りのときに合わせて、岡部さんが遺した珍しい藤の花のレシピをいただくことができました。藤の花は食用なのか?と思いますが、菊の花のようにゆでて酢漬けにしたものを少しずつ長寿の薬替わりに山川菊栄が生前、食していたとのことです。家事をしていたイメージがあまりない山川菊栄ですが、夫のために常に消化のよい食事をこころがけていたといいます。

帰宅後に、少しアレンジして酢の物のように、我が家の藤の花で作ってみました。藤の花を房からとるときにふんわりと良い香りが立ちます。ゆでると青くなった後、酢につけると元の紫色がよみがえりました。山川菊栄と岡部さんと同じものを食べられたという感慨にひたるひと時を過ごせました。長寿にもあやかりたいものです。

山川菊栄棚が藤沢の一箱古本市に登場します。

ほぼ毎月、「わが住む村」の読書会が開催されている藤沢のBOOKYさんで、5月17日(土)12:00から18:00まで、一箱古本市が開催されます。山川菊栄の棚も一箱出店することになりました。山川菊栄記念会出版物以外にも、フェミニズムや平和関係の本を用意しています。どうぞお立ち寄りください。

なお次回の読書会は6月8日です。参加をお待ちしています。

『明星』に青山菊栄の翻訳小品が掲載されていました。

山川菊栄が、森田菊栄として生まれてから135年がたとうとしています。東京府立第二高等女学校在学中に、母方の祖父であり水戸藩藩儒であった青山延寿の跡をつぎ、青山菊栄を名乗りました。父親の事業の失敗から家族の経済的な状況もあって、女学校卒業後は一度国語の教師をめざしますが、すでに古典の多くを読破していたため学習レベルに飽き足りず、麹町近くの教会の成美女学校で英語を、そして同じ教会で開催され始めた、女性の作家育生のための閨秀文学会に参加します。しかし、ほどなく閉じられてしまいます。その会を通じて与謝野晶子や平塚らいてうとも知り合い、馬場孤蝶に師事してその自宅で大陸文学、すなわちフランスやロシアの自然主義文学を英訳から学んでいきました。

その成果ともいえるドーデ著「月曜物語」からの2作品の梗概翻訳が『明星』に掲載されていたことを確認し、論考としてこのほど『資料部情報』5号で公開しました。馬場孤蝶の和訳指導プロセスそして多感な青春時代が日本の繰り返される対外戦争の時期と重なり、家族の情報環境のなかで、平和主義、人道主義の原点がはぐくまれていたことを考察しました。ご一読いただければ幸いです。(山口順子)

国立公文書館デジタルデータベースで山川菊栄旧蔵労働省婦人少年局資料が公開となりました

このほど、山川菊栄記念会から国立公文書館に寄贈した山川菊栄旧蔵の文書65件が、デジタルデータベースに搭載となり、検索可能となりました。初代労働省婦人少年局長として指揮をとった調査の報告書が主ですが、亡くなる年まで婦人少年局が送付を続けていたことを示す資料もあります。

女性官僚としては初の寄贈文書であり、所蔵は筑波の分館ではなく、東京北の丸(東西線竹橋駅)の国立公文書館本館となりましたので、閲覧申請でその場でどなたでもご覧になれます。

いくつかの文書には「山川蔵書印」が押されていたり書き込みもある、いわゆる本人の手択本となります。正誤表の数値を丁寧に書き写して正確性を保とうとしており、統計調査資料へのこだわりが見受けられるところもあります。

資料の来歴は、神奈川県立かながわ女性センターを経て神奈川県立図書館所蔵となっていましたが、重複本にあたるものについては先だっての取り決めにより、山川菊栄記念会が譲渡を受けたもので、それらを国立公文書館に寄贈したものです。経緯についても文書の詳細説明に書かれており、間違えられやすい労働省婦人少年局の「婦人労働課」、「婦人課」、「年少労働課」の3課の説明とともに、組織の変遷も合わせて記されています。

2年前からこのニュースでも報告してきた労働省婦人少年局資料の厚生労働省による譲渡事業の問題点、全国のどこに分散所蔵されたいったのか不明であることは残るままですが、記念会としては、今後も注視していきたいと思います。

国際女性デーのあとも、フェミニズムを映像にしてきた人々に光をあてた展示が続いています。

去る3月8日、渋谷で行われたウィメンズマーチ2025に参加してきました。50を超える団体、600人以上の参加と大成功となりました。


そして、先日もこのニュースに掲載した東京京橋の国立映画アーカイブの特集「日本の女性映画人}第3段の上映が続いています(3月23日まで)。

2月26日には。「ルッキング・フォー・フミコ」と「女たちの歴史プロジェクト」の上映前に、栗原奈名子さん、山上千恵子さん、瀬山紀子さんの舞台あいさつがあり、それぞれ国立映画アーカイブの収蔵作品になったことについて感慨を話されました。山川菊栄のドキュメンタリー映画の監督でもある山上さんは「やっと映画監督として認められたような気がする」と。

会場には映画に出演した70年代のフェミニズム運動の活動家たちの往年の面影がありましたが、そのなかにカリスマ的ともいえる中心人物で、昨年亡くなった田中美津さんの残影が映画の一シーンのように垣間見えるようでした。さらに、山川菊栄記念会代表であった井上輝子さんとこうした映画の感想を交換することができないこと、井上さんでしか書けなかったはずの「日本のフェミニズム」パート2が読めないことは、望んでもかなわぬこととはいえ、とても残念なことです。

一方、東京竹橋の国立近代美術館の常設展示の一角でも「フェミニズムと映像表現(2025.2.11–6.15)」が開催されています(6月15日まで)。日本と海外のフェミニズムのショートフィルムの70年代から現代までを概観することができます。山上監督が神戸で参加した鼎談記録の資料も展示されています。

スマホで手軽に動画編集加工もできて瞬時に世界発信ができるようになった今、AIとともに加速化するメディアの変化のなかで、映像とともに求めていく先にある未来社会をどう変えたいのか、立ち止まって考える契機を提起するような連動する二つの上映と展示となっています。

森鴎外記念館の特別展が終わりましたが、山川菊栄がハガキを出した山口武美という人についてひとこと

昨年から開催されていた東京・文京区立森鴎外記念館の特別展「111枚のはがきの世界―伝えた思い、伝わる魅力」展が、先月の1月13日に終わりました。コンクリートうちっぱなしの無機質な地下の展示空間に、色とりどりに並んだ110枚のハガキは圧巻で、手書きの絵や短歌、俳句などの添え書きから送りての個性もうかがえて、丁寧な解説もあいまってとても楽しめる内容でした。郵便料金値上げに伴って年賀状も激減しているなか、改めて多様性を見せていたアナログコミュニケーション時代を見直す時間ともなりました。

山川夫妻のハガキは昭和の初期と戦後の時代の別々のパートに展示されていました。このうち菊栄が1946(昭和21)年に光文社の山口武美にあてたハガキは原稿依頼を受けたものの、家族の看病を理由に断っていると思われる返信で、宛先の山口武美を不明とされていたのですが、心当たりがあって少し調べてみることにしました。

実は筆者は、山口武美(ヤマグチタケミ)の御子息にあたる山口静一埼玉大学名誉教授とは、1980年代に河鍋暁斎研究会の草創期に交流がありました。暁斎の曾孫で戦後早期に東大で医学博士を女性として取得した、眼科医・河鍋楠美氏の情熱的なイニシアティブで「暁斎絵日記」の解読や各地見学会などがあり、そうした会合の折に、山口教授が明治前期の戯作本など大量のコレクションを遺された御尊父の略年譜編纂について話しておられたことを記憶していました。それらの戯作本に文明開化に翻弄される庶民の喜怒哀楽を描いた河鍋暁斎の挿絵や、その弟子の鹿鳴館設計で知られるジョサイア・コンドル(暁英)について山口教授は研究を深化されていきました。

改めて、東京都立中央図書館に寄贈されていた『山口武美略年譜』(1986年、燈篭堂)にあたってみると、河鍋暁斎デザインによる千代紙で作られた表紙が色鮮やかにあらわれ、山口静一氏がワープロ打ちしたと思われるテキストを通じて、山口武美は、戦後光文社で総合雑誌『光』や光文新書の編集に携わり定年まで勤められたことがわかりました。

「略年譜」によると山口武美は1902(明治35)年、青森県に生まれ東洋大学を卒業後、『従吾諸好』や『書物展望』編集出版で知られる石川巌に師事し、収集した膨大な古書をもとに調査を重ねて、3つの書誌編さんの仕事、すなわち『日本沙翁書目集覧』『日本映画書誌』『明治前期戯作本書目』を残しました。また詩作、自由俳句の創作もあり、戦後の第21回芥川賞次点にもなった小説「雪明り」(筆名は光永鐵夫)と多彩な文芸活動をしていました。遺されたカードを拡充しながら「芥川龍之介作品収載教科書書目」を山口教授が『埼玉大学紀要』(埼玉大学教養部、34号、1985年11月)にまとめられています(https://dl.ndl.go.jp/pid/1797705

さて、展示された1946年8月17日発(推定)のハガキにもどってみると、敗戦直後の1945年10月に光文社から創刊された総合雑誌『光』の執筆依頼を断ったという背景がみえてきます。いったんは執筆依頼を断っていた菊栄ですが、「評論家・労働省婦人少年局長」の肩書で、1948年の『光』3月号に「嫁と姑」という見開き2ページのエッセイを執筆しているので、後日に求めに応えていたことがわかります。ただし、山口武美の名前は編集後記には見当たりませんでした。

このエッセイ「嫁と姑」は母系制度から家父長制の定着のなかで嫁と姑という二人の女性の確執関係が生まれてきたという女性史的背景から起筆して、新しい社会のもとで慣習にとらわれたりしながら嫁いじめになりがちな関係性をどう克服していくか、別居も視野にいれながら世代差を越えた相互理解が必要と、理想主義的に書いています。戦前から評論家として論壇の第一線にいた山川菊栄は『婦人公論』『女性改造』『婦人の友』といった女性雑誌だけではなく、総合雑誌の上で男性執筆者と肩を並べて堂々とした意見を表明していました。この『光』誌も書き手も読み手も男性がほとんどと思われるなか、多くの家族で男性が見て見ぬふりをして過ごしている小さな権力闘争の問題を示したのではないかと思われます。

山口武美が1980年3月に鬼籍に入ったのち、自由民権100年を背景に、雑誌『状況と主体』に遺稿である「近代反体制ノン・フィクション」が20回にわたり特別連載として掲載されています(1981年6月~1983年5月号)。国立国会図書館のデジタルコレクションで読むことができますが、その冒頭には1876(明治9)年に茨城県で起きた農民反乱をテーマにした「探誠夢復路」が置かれています。山川菊栄が戦後最初に書き、のちに『覚書 幕末の水戸藩』の冒頭に掲げた、生瀬の農民騒動の話と一脈通じるものを山口武美氏も残していたのでした。(山口順子、河鍋暁斎友の会会員)

*山口武美の読み方は、日外アソシエーツ株式会社 編『日本著者名総目録』1948~1976 6 (個人著者名 み~わ),日外アソシエーツ,1989.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12237336によった。

日仏会館創立百周年記念日仏シンポジウムで山川菊栄が大きくクローズアップされました。

1924年に開館した日仏会館は今年で100年を迎えました。それを記念し日本研究の蓄積を振り返り、また未来を展望する国際シンポジウム「フランスにおける40年の日本研究、これからは?」が11月15日と16日の二日間にわたり開催されました。

二日目の午後のセッション「人種差別と植民地主義を再考する」の中で、元ジュネーブ大学教授のピエール=フランソワ・スイリ氏が、山川菊栄の略歴と著作「人種的偏見・性的偏見・階級的偏見」(『雄弁』1924年6月号)について解説し、山川菊栄は、人種・性・階級の差別という三重の差別、インターセクショナリズムに理解を示していた稀有の女性と強調されました。山川菊栄のポートレイトが会場のスクリーンに大きく映し出されて、1924年にこのような女性がいたことは驚くべきことと最大限の賛辞で紹介されました。

日仏会館100周年記念シンポジウム
左からスイリ氏、成田龍一氏、司会の平野千果子氏

 スイリ氏はフランス国立東洋言語文化研究院教授として1999年から日仏会館フランス学長を務めたころ、2001年専修大学での日仏学術シンポジウムに登壇され、その記録は『歴史におけるデモクラシーと集会』(専修大学出版局、2003年)としてまとめられています。日本の歴史研究書を多数著されていますが、ジュネーブ大学においてフランス語訳のアンソロジー『植民地時代の日本 1880 ~ 1930 年 相違の声』(Japon colonial 1880-1930, Les voix de la dissension, Paris, Les Belles-Lettres, 2014)を監修されました。

そのなかで、伊藤綾氏とコンスタンス・セレニ氏が、山川菊栄の二つの著作を訳しています。そのうちの一点が今回スイリ氏がとりあげた「人種的偏見・性的偏見・階級的偏見」(Préjugés de race, préjugés de sexe, préjugés de classes)であり、もう一点が「満州の銃声」(Coups de fusils en Mandchourie, 『婦人公論』11月号、1931年)です。お二人とも現在ジュネーヴ大学文学部東アジア学科で教鞭ととっておられます。

 このアンソロジーのあと、山川に言及したスイリ氏の論文「Critiquer le colonialisme dans le Japon d’avant 1945Criticising Colonialism in pre‑1945 Japan)(1945年以前の日本の植民地主義を批判する)」(初出はCipango 18, 2011年, 189‑236,英語版2015年)も出ており、スイリ氏が山川菊栄に触れる可能性もあるかもしれない、とかすかな予想はしていたのですが、山川菊栄だけに焦点をあてて紹介してくださるとは想定外のことで大変驚き、フランス人の日本研究者が半数以上集まる会場に向けられた講演として感銘を受けました。成田龍一氏(日本女子大学名誉教授)のコメントでは福沢諭吉を代表とする明治の知識人が帝国主義、植民地主義の拡大とともに「人種」から「民族」へと用語を変えていったことを指摘され、交差差別を認識していた山川菊栄の視野の広さを指摘されました。戦後、その継承は森崎和江や宮田節子のなかに見いだせることを紹介されました。

続くセッション「フェミニズムとジェンダー:日仏の比較」では、日仏会館フランス事務所で平塚らいてう研究をされていたころ日仏女性研究学会との交流もあった、クリスティーヌ・レヴィ氏(ボルドー・モンテーニュ大学名誉講師)が上野千鶴子氏の著作『生き延びるための思想 新版』(岩波現代新書、2012年)のフランス語訳監修(Une idéologie pour survivre – Débats féministes sur violence et genre au Japon, Presses du Réel (Les); Illustrated édition , 2021)を通じた考察について話されました。従来のように暴力の被害者あるいは本質的平和主義者としてだけでなく、戦争加担者となり抑圧者にもなりうる女性たちの登場に向かい合い、ジャンダー平等が弱者から強者への転換で終わるのではなく、弱者の解放を進めていくべきとの上野氏の思想について、トランスナショナルに展開する展望を情熱的に披露されました。なお、講演予定でしたが残念ながら欠席となってしまった、ファヨル入江 容子氏(甲南大学文学部講師)のエルザ・ドルラン『人種の母胎』をめぐる考察は下記の参考リンクにあげた論考PDF版で読むことができます。

ところで、あまり注目されてこなかった山川菊栄とフランスの関係について若干付け加えます。菊栄の父親・森田龍之助は、陸軍の通訳職を経て、養豚に着目した千葉県令船越衛の欧州視察に随行し豚肉加工技術を深め、帰国後、講演録『養豚新説』で豚博士という異名をとるほどの人でした。その影響で菊栄の母親もフランス語を学んでいたことから、家庭環境のなかで菊栄もフランス語に親しんでいました。初期の翻訳にはアナトール・フランスの著作もありますが、これは私淑していた慶應大学教授の馬場孤蝶が所持していた英語版全集からの重訳だったと考えられます。しかし、馬場を通じてそれに触れていたことは菊栄の思想形成において看過できない重要な点があると思います。記念会サイト『資料部情報』で来年公開予定の次号でお読みいただけるよう準備中です。

シンポジウムの記録はいずれ日仏会館サイトの動画アーカイブに掲載される可能性がありますので、各自でチェックしてみてください。 (山口順子、日仏女性研究学会会員)

*参考 ファヨル入江 容子「エルザ・ドルラン『人種の母胎(マトリックス)』における「妊娠・出産(マテルニテ)」の問題」『大原社会問題研究所雑誌』(No.785、2024年3月)

潮田登久子さん撮影、山川菊栄文庫資料を含む写真集が刊行されました。

11月2日は山川菊栄の命日、3日は誕生日とSNS上でも発信してくださる方が少なくありません。今年の11月も何か朗報があるかも、との予感がありましたが、神奈川県立図書館の方が潮田登久子さんの写真集『改修前 前川國男設計 神奈川県立図書館』が刊行されたとお知らせくださいました。さっそく買いに行くと発行日は11月4日と書かれていました。

去る3月3日、県立図書館でのWikigap in Kanagawaで、潮田さんが撮影された山川菊栄文庫資料のことをご紹介しました。そのときは、レミントンジュニアの菊栄愛用タイプライターの撮影エピソードをお話ししました。

米国のレミントン社が製造したポータブルタイプのレミントンジュニアで、おそらく山川菊栄は『社会主義研究』(6号、1922年1月)から英文論文「Women in Modern Japan」(近代日本の女性)の連載を開始します。おそらくこれはタイプライターで打ったものと思われ、製造番号がわかれば山川菊栄が入手した時期も絞られてくるはずなのですが、シリアル番号を打ったプレートがなかなか見あたらなかったのです。そのことをお話したら、お連れ合いの島尾伸三氏がタイプライターをひょいと持ち上げられ、その途端にプラテンが動き、チーンという澄んだ音色が地下の作業室に響き渡りました。まさしく菊栄が打っていたときの音色だと思われ、なんともいえない感動を覚えたことが鮮やかによみがえる作品です。敷物は山川振作夫人の美代さんの名前が縫い付けてあるふろしきです。

ほかに、アウグスト・ベーベルの名著を菊栄が英語版から重訳、完訳した記念碑的な『婦人論 婦人の過去・現在・未来』(1923年3月、アルス社初版本)の金色の背文字のアップ。しゃれたゴシックの飾り文字はおそらくはアルス社の装丁を一手に引き受けていた山本鼎(かなえ)のデザインと思われるものです。アルス社は北原白秋の弟の出版社で、その年の関東大震災により壊滅的な打撃を受けるのですが、紙型が奇跡的に残っていたため、翌年再版することができました(再版の菊栄自序)。それから、女性の姿を影絵のように表紙に配置した米国女性局資料。戦前に取り寄せられていたものの一つで、アメリカの女性のあらゆる職業実態を調査し作成されていました。そして花の意匠が愛らしい日記帳、横浜地方法務局による人権擁護委員の木製看板の4点が写真集に収められています。

作品解説で残念な点を一つ。山川菊栄が社会主義を学んだ人として、「堺利彦・幸徳秋水、大杉栄」(p146)と書かれています。しかし、まずは初めて菊栄が社会主義について理論的にまとまった講演を聞き、結婚、均菊相和すと言われた山川均については、死別の後、息子の振作氏とともに思想の全貌を『山川均全集』(勁草書房)に編んで世に送り出しました。そして、雑誌『近代思想』でベーベルの訃報を書き『婦人論』の重要性を説き、『恋愛論』を共訳した堺利彦、ついで、大杉栄や先述の英文論文を書くことを勧めたという片山潜といったところになるでしょう。


ともあれ、神奈川県立図書館の改修前の歴史的空間と、蔵書のさまざまな表情を巧みに引き出した作品集となっています。猿田彦珈琲株式会社による発行で、図書館のカフェだけでの取り扱い販売となっています。お出かけの時にぜひお買い求めください(税込・3850円)。(山口順子)