関東大震災で被災した山川菊栄の手紙が神奈川県立図書館で展示されています。

ちょうど1世紀前の関東大震災の日、9月1日が近づいてきました。

ちょうど1世紀前の関東大震災の日、9月1日が近づいてきました。

 以前お知らせした神奈川県立図書館の展示「関東大震災100年 神奈川県の被害と復興」には、東京で被災した山川菊栄が母と姉・松栄にあてた手紙が書き起こしとともに展示されています。拡大コピーと書き起こしが読みやすく展示されており、あわせてそのときの避難経路も地図に示されています。菊栄と学齢期を迎えようとする一子・振作は、東京三田の慶應義塾大学そば、札ノ辻で被災し、バスや馬力という乗り物を乗り継いで、夕方、大森の自宅まで帰り着きます。書簡は9月3日付ですが、2日の午後から朝鮮人襲来のデマがあったこと、半鐘が鳴り響き、異様な空気であったことなどを書き伝えました。後年の名作「おんな二代の記」にもこの大震災の体験は「天災と人災」の章でさらに克明に記されており、貴重な歴史的証言となっています。9月2日午後に馬に乗った兵士が慌ただしく触れ回るデマを聞いても、合理的な思考とともに冷静さを保ちながら過ごしていく山川夫妻のようすがうかがえます。

 菊栄は、翌1924年「大試練を経た婦人の使命」(『山川菊栄集』第3巻251頁、初出は『大正一三年婦人宝鑑:家庭百科全書』大阪毎日新聞社編纂発行、国立国会図書館デジタルコレクション)のなかで、「黒船に怯えた幕府時代の日本と、世界の大国の班に列する今の日本との間に、果たして何ほどの思想的進歩があったかを怪しまずにはいられなかった。いかに不用意の際に巧妙な流言が行われたにせよ、日本人が一般的にいま少しく人命の貴重さを知り、人道の何足るかを心得ていたならば、あれほどの残虐は行われなかったであろう。褊狭なる愛国主義。封建的な尚武思想、排他的な島国根性! これらに禍された日本人の教養は、今日一等国をもって誇る国民に中に、敵の髑髏をもって装飾品とする蒙昧人を多く産出するようなこととなったのである」と、朝鮮人虐殺に加担した人々を批判しています。また国民全体の道徳的欠陥や教養の低さについて猛省を促しています。そして、震災直後に菊栄も加わって結成された東京の婦人団体連合会が、甘粕大尉の虐殺事件に対して人道の名において抗議を発表したことを「まことに意義あること」とし、患者の看護にあたった看護師たちの勇気をたたえ、「人の生命を奪う代わりに生命を与えることを本分とする婦人が、今後、今回のごとき残虐行為を防止すべく、平和と人道との名における大々的な運動を起こさねばならぬことは当然であろう」と書きました。

 虐殺された朝鮮人の人々の数はまだ正確にわかっていませんが、山田昭次氏が在日本館等大震災罹災朝鮮同砲慰問班による調査報告をもとに再計算した数値では、神奈川が最も多く3999人、東京1781人、埼玉488人、千葉329人、群馬34人、栃木8人、茨城5人となっています(2023年高麗博物館企画展図録「関東大震災100年 隠蔽された朝鮮人虐殺」9頁・展示は12月24日まで)。このほかにも中国人や障がい者、労働運動者、社会主義者が犠牲となりました。大杉栄、伊藤野枝、橘宗一3人の暴行致死も、金子文子と朴烈の不当逮捕と獄死も、関東大震災の混乱に乗じた軍や警察当局の非人道的な蛮行が原因です。

 9月2日の午後にデマを伝えながら鳴らされていたという半鐘は、サイレンや有線放送、メールなどに置き換わっていき過去の遺物だと思われがちですが、まだ消防団の建物に付随して残っている地域もあります。100年前のような目的で鳴らされることが二度とあってはなりません。

神奈川県立図書館の展示は今年末までですが、11月に展示替えが予定されています。詳細は図書館まで(電話代表・045-263-5900)。

続・『文藝春秋』8月号の「日本の100人」に山川菊栄が挙げられました。-『文藝春秋』掲載の山川菊栄による記事紹介

 さて、『文藝春秋』8月号の特集「日本の100人」に鹿島茂氏が「隠れ水戸水脈」として推した山川菊栄が、水戸つながりでかつて『文藝春秋』に書いたものには、「ラッシュアワーと猫と杓子」(『文藝春秋』1929年6月号・『山川菊栄集5』(岩波書店)に収録)があります。不況のなかの受験や就職に右往左往する世代に対して、その一世代上の識者たちが資本家たちに依存した立身出世の過程を棚に上げて、上から目線で「独立独歩」を薦めている傾向をユーモラスに批判しています。そして、文末には、光圀が『大日本史』編纂のきっかけにしたという『史記』の「伯夷列伝』の故事を隠喩に使って、たとえ安易にひとり義に生きても飢えるだけだと戒めています。

 その6年後、女性解放論者の山川菊栄に求められた「男性への爆弾」について、標的を身内に探していく「まず手近なところから」(『文藝春秋』1935年2月号・『山川菊栄集6』に収録)という面白いエッセイがあります。爆弾を求められたのは、山川のほかに森田たま、河崎なつの三人で、筆頭に位置づけられた山川は、「非常時とはいへ、凄まじい課題が出たもの。(中略)私のような、かよわいたおやめですら、爆弾三勇士並みの仕事ができるというお見立てにあずかった」と諧謔的にかわしつつ、根が平和主義者であり、自分は男性には爆弾どころか花束のほか投げたことがない男性讃美主義者だと明言します。そしてこの場はやむを得ず、近ごろはやる急角度の転向をきめこみ、ともかくも爆弾をとりあげ、まずは夫から的にしていきます。

 女中さんの休暇のときの恒例の風景として、台所にたつ夫は、山川菊栄の洗った茶碗を拭き終えると得意の包丁磨きを始めています。そこに爆弾を投げようとすると、夫は「温良貞淑、実に亭主たる者の亀鑑だね」と自ら名乗りだすので、爆弾投下はやめてしまいます。つぎに長年の恨みがあるという秀才で通した兄。その恨みとは、学校から帰ると大声で教科書を読み上げ周囲の迷惑を顧みなかったことだというのですが、姉・松栄が兄の結婚後、全く人が変わりよく気がつく優しい人間になった、と幸福そうに語っていたことを思い出し爆弾投下はあきらめます。
 さらに、頑固なアンチ・フェミニストの従兄の砲兵中尉に眼を向けると、妻に先立たれ10人の子供を抱えて一心不乱に家事育児にいそしむ姿があり、その巧みなミシン仕事にも感心しつつ、我が家では夫も息子も自主的にミシンを操って綻びくらいは直しているとも。

 このように家族や親戚がみな家事育児の超亀鑑派、つまり超模範的な男性の血統を引いているのだというのです。祖父にあたる水戸藩漢学者・青山延寿も夜中まで読書に没頭するかたわら、赤子とすでに寝入っている妻から、子をそっと取りあげお手洗いに連れていって、また静かに戻したという、子育て中に繰り返されたという微笑ましい逸話を紹介しています。

 そして、欧米の物質文明の影響で思想が悪化し、軽佻浮薄な非亀鑑人種が跋扈して、こうしたわが国の古来の順風美俗を破壊するのは、国家の前途のために寒心に堪えないといい、これらの美談佳話を教科書に掲載すべきと提言をして、とうとう爆弾を投げずに平和主義花束主義に落ち着くことができたと筆をおきます。

 中条(宮本)百合子は、面白い文章で社会的問題を私的空間におさめて論じていると評しました(鈴木裕子解題『山川菊栄集6』)。すでに日中戦争に突入し太平洋戦争へと向かうにつれて、内閣情報部さらには内閣情報局による苛烈を極める言論弾圧が進み、執筆者選別と直接的な検閲が、山川菊栄の執筆の場をどんどん狭めていくことになりました。

 印刷用紙の統制、さらには総合雑誌の統合さえも検討されようとするとき、『文藝春秋』に書いた「烈公のころ」(1944年5月号)は、大政翼賛体制の総力戦を煽るような後期水戸学の称揚のなかで、ごくわずかに許されたテーマの一つであり、水戸水脈が施した戦時下の糧だったのかもしれません(了・文中のタイトル表記の用字は『山川菊栄集』に拠りました。山口順子)。

追記:「ラッシュアワーと猫と杓子」は「猫と杓子」というタイトルで、『南洋日日新聞』(1930年12月11日~13日・1面)に転載されています。(スタンフォード大学フーバー研究所・邦字新聞デジタル・コレクションによる https://hojishinbun.hoover.org/ja/newspapers/nos19301211-01.1.1<2023年月14日閲覧>)