山川菊栄は1951年5月24日に国立国会図書館に何冊かの自分の著作を寄贈しました。森田蔵書印があったり、両親への献辞が書かれていたりするので、1947年に母・千世が逝去した後、遺品を整理して寄贈したものと思われます。このなかで「水曜会パンフレットNo.11」(1923年刊)は、メーデーについて山川菊栄述としたもので、付録の2編が山川均の署名となっています。
メーデーについての著述はこれが初めてではなく、雑誌『解放』に書いた「五月祭と八時間労働の話」が大杉栄主幹の『労働運動』5号(大正9年4月30日号)に抄録として転載されており、国立国会図書館デジタルコレクション収録の虐殺50年記念で出版された復刻版(1973年、黒色戦線社刊)で読むことができます(個人送信限定)。
これによると、1886年、アメリカで起きた8時間労働要求の20万人に達する大デモ行進を機に、国際的に広がりをみせ、1889年には欧州労働団体の年中行事に採用され、1890年から毎年の恒例となり、労働政策の改善に少しずつつながっていったことを紹介しています。そして最後に次のように結んでいます([]内は活字不良での推定、一部かなづかいを現代のものに変えています)。
八時間労働が十八時間労働という光栄ある例外を作って居る日本の外のあらゆる文明社会の通則たるに至った今日、五月祭はすでに其最[善]の目的を達成したに等しい。然しながら五月祭は未だ其使命を果たし尽したとは云えない。世界の労働階級は「万人の自由」が完全に成就せらるる其の最後の日まで、飽まで勇敢に、飽まで熱心に、五月祭の戦を続ける事であろう。勿論続けなければならない筈である。
-山川菊栄「メエ・デエ(五月祭)」より
当時の日本は、18時間労働という睡眠時間以外働きどおしであったなか、1920年の第1回のメーデー開始直前に書かれた文章であり、翌年の第2回には山川自身が顧問となった女性団体・赤瀾会がメーデーに参加しました。そのようすも『労働運動』12号のなかに書かれており、デモ行進の全体の声がメーデーの歌から革命歌となっていったとき赤瀾会の会員の「ソプラノの声」が澄み渡ったとのことです。
国立国会図書館の蔵書のうち、図書や雑誌の本文や広告のなかに「メーデー」ということばが出てくる回数は1886年以降でのべ28万件以上みられます(NDL Ngram Viewerによる。リンク先のページの下のほうにグラフがでます)。戦前では1930年がピークで減少し、戦後は大きく増加しながらも1966年から減少に転じて、2003年以降はなんと二けたの数字しかでてきていません。
今年は第1回から数えて97回目。ようやく労働時間短縮が行われるようになったとはいえ、男女の賃金格差は解消されず、女性たちは低賃金のうえ本業以外に副業を奨励される一方、裁量労働制の見直しをはじめ、武器輸出、憲法改悪を公然と打ち出している首相をゲストに呼ぶブラックジョークのような状況に、いったいだれのためのメーデーだと思っているのか、と山川菊栄の怒りの声が聞こえてくるようです。
<参考>1951(昭和26)年山川菊栄寄贈の国立国会図書館蔵書(まだ、このほかにも見つかる可能性があります。探してみてください。)
- [山川菊栄 訳]『大戦の審判』,丁未出版社,1917. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3436126 (参照 2026-04-29)見返しに両親への献辞と本人の出版経緯の説明が巻末につく(この説明は岡部雅子氏が最初に確認した)。
- エドワアド・カアペンター 著 ほか『恋愛論』,大鐙閣,1921. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1780332 (参照 2026-04-29)
- 山川菊栄 著『メーデー』,水曜会出版部,1923. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1780238 (参照 2026-04-29)