1981-2020年
1.山川菊栄記念会の出発
山川菊栄記念会は、1980年に山川菊栄が逝去した直後に、 石井雪枝、菅谷直子、田中寿美子の3名の発起人によって設立された。主たる目的は、ご遺族から提供された資金を基に、 「婦人問題に関する研究を促進する一助として、婦人問題の研究・調査などに実績を示した個人またはグループ」に「山川菊栄記念婦人問題研究奨励金」を贈呈することだった。 発起人はいずれも、労働省や婦人問題懇話会を通じて山川菊栄の薫陶を受けた人たちである。
1980年当時、すでに日本でも女性学が提唱され研究会や学会も作られ始めてはいたものの、まだ女性学を名乗る研究者の数は少なく、一般的には「婦人問題研究」 という呼称が定着していた。 そして、 女性学にせよ、婦人問題研究にせよ、 女性史研究にせよ、 研究者として定職を得ることは非常に困難な状況で、これらの研究の大半は、いわゆる在野の研究者によって担われていた。 だから、研究を続けるためにせめてコピー代の足しにしてほしいというのが、「山川菊栄記念婦人問題研究奨励金」を設けた趣旨であった。
発起人3名に加えて、遺族の山川振作、 その友人の川口武彦、 芳賀徹、また婦人問題研究者の竹中恵美子、水田珠枝の8名で選考委員会がつくられ、1981年に第1回の奨励金を贈呈。 以後毎年、選考と贈呈が行われていくことになる。
なお、平等主義者の山川菊栄は、上位者が下位者に授ける「賞」という発想を嫌ったという。この山川の遺志を受けて、記念会では「山川菊栄賞」ではなく、「山川菊栄記念婦人問題研究奨励金」という名称を大事にしてきた。毎年の贈呈式に際して、この名称の由来を語り、 山川の姿勢を伝えることが、長らく慣例化した。 とはいえ、 「山川菊栄記念婦人問題研究奨励金」という名称はいかにも長く覚えにくい上、また 「婦人問題研究」から「女性学」への学間動向の変化もあるなかで、しだいに「奨励金」という名称の趣旨を尊重しつつも、 「通称山川菊栄賞」 と付言することも多く、社会的に「山川菊栄賞」という名称で呼ばれることが通例化していった。
2.山川菊栄記念会のあゆみ
<1980年代 >
1980年代の受賞作には、山川菊栄研究のほか、 「近代日本看護史」、 「銃後史ノート」、斎藤百合の伝記 「光に向かって咲け」、「分断時代の韓国女性運動」、「アメリカ・フェミニズムの社会史」、 「助産婦の戦後」など、歴史的研究が多かった。それまで民間の自主グループ等で蓄積されてきた女性史研究の伝統が、女性たちが自分の問題を解く鍵として、活かされたというべきであろう。
<1990年代 >
90年代に入ると、 「男女雇用平等法論』、 セクシュアル・ハラスメント調査 「おんな6500人の証言」 「企業中心社会を超えて」 など、 雇用の場での女性差別や、 「婚外子の社会学」 「21世紀家族へ』 等の家族論、『女の月経・女のからだ」「女はなぜやせようとするのか」など、 女性の身体への関心、元日本軍「慰安婦」だった女性の聞き書き 『文玉珠』、 売春防止法・優生保護法体制を論じた「性の歴史学」など、国家による女性のセクシュアリティ管理の問題 また介護や母性イデオロギーの問題など、 現代女性が直面しているさまざまな問題に多様な角度から切り込んだ作品が受賞している。
1990 年に山川菊栄生誕100年没後10年記念行事が開催されたが、この頃から、山川菊栄記念会のメンバーも大幅に拡充された。 創設時の世話人、選考委員に加えて、80年代後半に世話人として、受賞者の鈴木裕子、 亀山美知子、婦人問題懇話会の重藤都、 井上輝子の4名が加わり、さらに94年からは、受賞者の浅倉むつ子、 有賀夏紀、 加納実紀代、 丹羽雅代、 山田敬子、婦人問題懇話会の駒野陽子の6名が、 また97年からは、 佐藤礼次(労働者運動資料室)が加わる この間に物故された方や、 事情により選考委員を辞退される方もあり、実質15名程度で、運営されることになった。多様な専門分野の研究者やアクティビストも加わり、記念会は、世代的にも分野的にも厚みを増した。
初代代表であり選考委員長を兼任していた田中寿美子が95年に逝去した後、菅谷直子が代表に、 井上輝子が選考委員長に選任された (2006年の菅谷の逝去後、 井上が代表を兼任)。 記念会は第2期を迎えたといってよいだろう。
90年代における受賞作の広がりは、日本の女性学が各学問領域に根付いてきたことによるが、 それに加えて、記念会自体のメンバー構成の変化も一因となっている。この新しい陣容で、 2000年には、山川菊栄没後20年生誕110 年記念事業を実施し、また山川菊栄賞の20年間の歩みをまとめた「たたかう女性学へ」を上梓した。
< 2000年以降 >
21世紀に入って、日本の女性学は各分野で大きく進展し、大学や学会を基盤にする女性学 女性史関連の賞も次々に設立されてきた。この状況を承知しつつ、山川菊栄記念会は、敢えて財政基盤の拡大や、選考委員の補充や交替をしないできた。
記念会の現メンバーのほとんどは、山川菊栄の直弟子ではないものの、 20年以上にわたる長年の選考委員会での議論を通じて、選考の判断基準がかなりの程度共有され、 山川菊栄賞の特色がおのずと醸成されており、この特色の変更を望まなかったからである。 私たちが選考に際して判断した基準を敢えて言葉化すれば、学術研究としての洗練度よりは、 アクチュアルな問題意識を重視し、 女性の生きづらさを解消するための力になる作品を重視してきたことである。
ちなみに、 2000 年以降の受賞作品で特に顕著なのは、 ①不妊治療、マタニティハラスメント、 「富士見産婦人科病院事件」 中絶技術とリプロダクティヴ・ライツなど、 女性の身体・生殖に関するテーマ、 ② 「国際女性戦犯法廷」の記録、「ドメスティックバイオレンス」、日中戦争と性暴力、米軍と売買春など、女性に対する暴力の問題、 ③ ハンセン病患者、「顔にあざのある女性たち」、「在日朝鮮人女性」たちの活動、「女性ホームレス」など、さまざまな意味でマイノリティとされる女性たちの生き方を採り上げた作品である。
学位論文だけでなく、在野の研究者が当事者のライフストーリーを記録した作品や、法廷や裁判闘争に参与した記録なども、特別賞等の形で、贈呈させていただいた。 まさに、「たたかう女性学」 の発掘といえよう。
3.山川菊栄賞の終了と、今後の記念会
2010年、記念会は山川菊栄生誕120年記念事業として、シンポジウム等の開催に加えて、 映画 「姉妹よ、 まずかく疑うことを習え一山川菊栄の思想 と活動」 (山上千恵子監督)及び展示用パネルを制作した。
さらに2015年の生誕125年記念事業では、 シンポジウム等のほか、 2000 年以後の山川菊栄賞の記録集「たたかう女性学の歩み」、並びに 「山川菊栄・山川均写真集イヌとからすとうずらとペンと」 (同時代社)を刊行した。
同時に、山川菊栄賞の選考・贈呈を第34回で終了し、 以前から記念会のイベントや出版事業に協力してきた中村ひろ子 (女性会議事務局長)の参加を得て、長期的な展望の中で、 記念会活動を持続することにした。
記念会としては、今後とも、山川菊栄文庫所蔵物をはじめとする山川菊栄関連資料の整理 情報提供などに、責任を持ち続けるとともに、山川菊栄生誕周年記念事業の成果物 (冊子・書籍や、パネル、 DVD 等) の保管、貸出・販売等の活動に注力していきたい。
最近、国内外で、 山川菊栄への関心が高まっているが、 今後の山川菊栄研究のさらなる発展に記念会が多少とも寄与できることを願っている。
(文責: 井上輝子、『いま、山川菊栄が新しい!』pp.95-98より)